北米

2026.04.16 17:44

世界が分断する今、カナダに問われる「国家アイデンティティ」の再構築

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数年前、私はマレーシアのセランゴール州で、東南アジア最大級の複合企業のオフィスにいた。相手は中国系の高齢の紳士で、面会は短時間の予定だった。だが、手短な会話のはずが、1時間半に及ぶ議論になった。

グローバル人材の流動性、メディア、そしてグローバルネットワークに関心を持つ企業群「369 Global」の共同創業者として、私は新しく見知らぬ市場で、自分の役割やアイデンティティを定義し直す場面が少なくなかった。国際的な成長を統括し、しばしば市場探索に関わる立場として、人材流動性とメディア分野での協業可能性を探るため、公式の「Team Canada」貿易ミッションに参加する機会もあった。

彼の見方を知りたくなり、私は一見無邪気な質問を投げかけた。「カナダをどう思いますか?」

まるでこの世で最も意外な質問でもされたかのように私を見て、彼は笑い、ただこう言った。「カナダのことは考えないね」

不意を突かれ、私は「カナダのことを考えないとは、どういう意味ですか?」と返した。

彼は肩をすくめて答えた。「君たちは強大なアメリカという樫の木の枝にすぎない。そこにいるのは知っているが、アメリカほどカナダには関心がないんだ」

この会話や他のやり取りを通じて、私は世界の有力者の多くにとって、カナダがどれほど重要でなくなっているかを痛感し始めた。カナダには礼儀正しく、平和的で、歓迎的だという世界的な評判がある。だが、評判はアイデンティティではないし、アイデンティティは戦略ではない。

評価が割れる現実

カナダ国外の読者であれば、ニュースで私の国名を耳にしたことがあるかもしれない。例えば、トランプ大統領がカナダを51番目の州にすると呼びかけたり、首相を「カーニー知事」と呼んだりした、侮辱的な調子の報道として。

こうした言説や、米国と他国との間で近時生じた敵対関係を受け、マーク・カーニー首相は2026年1月20日、ダボスの世界経済フォーラムで圧巻の演説を行った。そこで彼は、ドナルド・トランプ大統領が引き起こした世界的混乱に触れ、「いま起きているのは移行ではなく断裂だ」と述べた。

さらに、旧来の秩序は戻らないとしたうえで、こう語った。「国々には、事を荒立てないために波風を立てず、迎合し、問題を避け、従えば安全が買えると期待する強い傾向がある。だが、そうはならない」

海外での彼の言葉は、カナダ国内で幅広い拍手を浴びた。だがその2日後、「アブラハム平原」の演説を行うと、反応はまったく異なるものになった。

この演説でカーニーはカナダの起源を振り返り、1759年の戦いは征服を意味したものの、カナダは最終的に多くの帝国史とは異なる形で発展したと主張した。フランス語と文化を消し去るのではなく、国は次第に、異なる人々の間で共存、妥協、統治の共有へと向かったという。交渉と多元主義によって築かれた国家としてカナダを位置づけたのである。

ダボスでの演説とは異なり、この演説は批判を招いた。征服の帰結を「配慮(accommodation)」と表現することは、英国統治下でフランス系カナダ人が経験した力の非対称性やトラウマを矮小化している、という主張が出たからだ。批判する側にとって、アブラハム平原は妥協ではなく敗北と生存の象徴であり、国民統合という現代のメッセージを支えるために歴史の現実を単純化していると映った。

わずか2日間に行われた2つの演説は、いまカナダ人が直面する課題を際立たせただけだった。各国がナショナリズムを根拠に自らを囲い込む、より混沌とした世界のなかで、目下の課題に対処しつつ統一された国民的アイデンティティのもとに結集することは、ますます難しくなっている。

私たちは結束を望むが、何の物語のもとで結束するのかをめぐって争っている。

結束は画一性ではない

ここが認めたくない点だ。私たちのアイデンティティは常に、受け継がれたものではなく交渉されてきた。だが交渉には、何が譲れないのかについての明確さが必要である。

誰もが異なる見方を持つ。アスペン研究所CEOのダン・ポーターフィールドはこう書いている。「純粋さ、つまり思想的、人種的、文化的な純粋さばかりを追い求める文化は、民主主義を受け入れる土壌になりえない」。異なる声が必要なのだ。画一性ではなく結束を。

私はこの一節を、カナダが世界の分断を輸入しながら、それを「私たちらしくない」と装うのを目にするたび思い出す。違いを抱え込みつつ部族化へ溶け落ちない、確信ある多元主義を自ら選ばなければ、誰かがより純粋で、より狭いアイデンティティを、私たちのために選んでしまう。

「無礼なカナダ人」という応答

強みとされてきたものにもかかわらず、カナダ的な礼儀正しさはいまや負債になっている。これは私の最新著書The Impolite Canadianのテーマでもある。カナダ人は国民の結束を、礼儀作法によって保つものとして扱いがちだ。だが私は、これは誤った戦略だと確信している。

アルバータ州では、分離独立の熱が、住民投票の議論、権限をめぐる争い、そして拡大する被害意識といった具体的な政治メカニズムにまで流れ込んでいる。ケベック州では、主権は繰り返し引き出されるカードのままだ。深く信じられている場合もあれば、状況次第の場合もあるが、常に強い影響力を持つ。世論調査によれば、両州とも多くの人々はカナダから離脱したがってはいない。だが、そもそも再びこの議論に戻ってきているという事実は、私たちを冷静にさせるべきだ。

そして和解という問題がある。礼儀正しい人々を不快にするため、先送りし続けてきた問いでもある。オタワは真実和解委員会の「行動要請(Calls to Action)」に関する進展を強調する。一方、先住民の団体や指導者はしばしば不足、遅い実施、そして「かなり進んでいる」と「現場で実感されている」の差を指摘する。どちらも異なる意味で真実でありうる。そして、そうではないふりをすることこそが、信頼が損なわれるやり方そのものだ。

では、2026年に国民的アイデンティティを強化するとは、実際にはどのような姿なのか。

それは最良の意味で「無礼」になることだ。カナダが何のためにある国なのか、そして、誰かを不快にさせるかもしれないという理由で、これ以上は言うのを避けないことを、明確に語ることである。結束を沈黙と取り違えず、帰属を無味乾燥さと取り違えないことだ。なぜなら、世界が自らを囲い込むなかで、自国の物語を言語化できない国は開かれたままでいられない。他者に利用されるだけである。

forbes.com 原文

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