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2026.04.16 15:15

「調和」について考えさせられた、あるコンサートの衝撃

2026年3月15日にイタリア・ミラノで開催した参加型アートプロジェクト『Earth ∞ Pieces MILANO 2026(アース・ピースィーズ ミラノ2026)』

ここで思うのは、アシミレーションとインテグレーションは単純な対立関係ではないのではないか、ということです。同化のプロセスを経るからこそ見えてくる感覚があり、その経験があってはじめて、差異を保ちながら共存するより良い統合へと進めるのではないかと思うのです。

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この身体的なコミュニケーションの豊かさについては、イタリアでの経験も強く印象に残っています。イタリアに初めて渡った時、現地でできた友人が「イタリア人は『手で』喋るのだ」と、イタリア人デザイナー・ブルーノ・ムナーリの『Supplemento al dizionario italiano(イタリア語辞書の補足)』(1963年)という書籍を教えてくれました。日常的なイタリアの身体的非言語表現をユーモア交えながら紹介しているのですが、表紙の写真の大胆なレイアウトや、言語・文化を超えて伝わるビジュアル性に感動したのを強く覚えています。

私はあまり手話には馴染みがありませんが、イタリアの友人や家族たちが映画のワンシーンのジェスチャーに大笑いしたり、対向車の運転に文句があると怒りを込めて手でサインを送ったりするのを見てきて、安西さんが感じた言葉以外の身体的表現の豊かさを私はイタリア語ジェスチャーに見ていたように思います。

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「イタリア人は外国語話者の文法の間違いをあまり気にしない」と言うのは、ルクセンブルクで働くイタリア人の義理の甥です。「イタリア語は英語よりも学びやすい気がする」と私が言うと、そう返されました。ルクセンブルク語、フランス語、ドイツ語など複数の言語が行き交う環境で働く彼は、むしろ正確に話さなければならないというプレッシャーを日々感じているそうです。

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この話の真偽を一般化することはできませんが、少なくとも私自身も、イタリア語での会話において、言葉の正確さ以上に意図や感情が汲み取られている感覚をもっています。言葉尻ではなく、身振りや表情を含めた全体から意味を汲み取ろうとする姿勢があるのです(もしかしたら、だからイタリア人は人の話の腰を折る、と言われるのかもしれません笑)。

以前、夫から「知美はイタリア語で話しているときの方が感じがいい」と言われたことがあります。それは日本語や英語を話すときよりも、言葉が身体的になり、彼が汲み取れる情報の幅がひろがって、安心するのだと思います。

同化するというのは、単に吸収されることではなく、ある種の「引力」に身を委ねることなのかもしれません。つられてしまうような感覚のなかで、自分の身体や感覚が少しずつ変化していく。そのプロセスを経ることで、逆に自分自身の輪郭が見えてくることもあります。

そう考えると、「きちっと」によって保たれる調和とは別のかたちが見えてきます。あらかじめ整えられた秩序に無理に合わせるのではなく、それぞれがもつリズムや不均衡を含んだまま、関係性のなかで補い合っていくような調和です。

「きちっと」に従うのではなく、「きちっと」を選んで使う。その違いは小さいようでいて、大きな転換だと思います。

文=安西洋之(前半)・前澤知美(後半)

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