「AIは私たちの仕事を奪うのか?」という議論は、「もう終わりだ」派と「人間は適応する」派に二極化しがちで、どちらも根拠に乏しいことが多い。以下では、恐怖や希望だけに基づかない3つの異なる立場を整理してみたい。
「もう終わりだ」論:AIが経済を壊滅させる
投資戦略会社のCitrini Researchと、テクノロジー起業家で元ヘッジファンド・アナリストのアラップ・シャーによる最近の思考実験は、信頼に足る最悪のシナリオを提示している。内容は未来を舞台にしており、2028年に書かれ、直近2年間に経済面で何が起きたかを振り返るという体裁だ。彼らが描写する経済問題は、次の連鎖から生じたという。
「AIの能力が向上し、企業が必要とする労働者が減り、ホワイトカラーの解雇が増加し、職を失った労働者の消費が減り、利益率へのプレッシャーが企業をさらなるAI投資へと駆り立て、AIの能力がさらに向上し……」
彼らのペーパーは、経済的・政治的に下降スパイラルが生じうる出来事を、もっともらしい形で示している。雇用の減少、消費の減少、財への需要の低下、そしてさらなる雇用減少。自己増殖的な負の循環である。
CitriniとShahは、これを予測ではなく、介入がなければ起こり得る事態として位置づけている。
「新しい仕事」論:雇用は増える
この議論は、新たな役割が生まれるか、十分な人数がAIの影響を受けない既存の役割へ移行できるという前提に立つ。問題は──後述する「タイミング」はいったん脇に置くとして──AIの能力が向上し続け、その新しい仕事すらAIが置き換えてしまうのかどうかである。この議論もCitriniの議論と同様に、AIの能力に限界があるのか、あるとすればどこにあるのかに完全に依存している。
従来の汎用技術(General Purpose Technology)と異なり、その境界は見極めにくい。蒸気は熱を運動に変え、電力は動力を提供し、コンピューターは作業を自動化した──いずれも能力の上限に達し、人間が適応する時間が生まれた。AIは人間の認知の一部を大規模に複製しており、これは歴史的に前例がない。
「人間の慣性が救う」論:人間の慣性によってAI導入は遅れる
世界の指導者たちが歴史から学ぶ気がなさそうだという現在の出来事が示唆するところはあるにせよ、私たちは学べるかもしれない。
およそ1780年から1840年にかけての英国──産業革命の中心地──では、GDPと工業生産が大幅に伸びたにもかかわらず、労働者の実質賃金は概して横ばい、あるいは低下していた(先月のForbes記事で触れたとおり、私たちは同様の事態が繰り返される兆しを見始めているのかもしれない)。労働者は家内工業から、新たな雇用カテゴリーが吸収できる速度よりも早く追い出された。
生活水準が目に見えて改善するまでには60年を要した。しかし当時は、政府による社会保障がまだ存在していなかった。この時期の失業統計はないが、そこにあるのは一時的な混乱ではなく、長期にわたる不完全就業と貧困という図である。
歴史が示すのは、痛みが特定の労働者や地域社会に不均等に降りかかること、そして全体としての好結果は、年単位ではなく10年単位の遅れを経て到来してきたということだ。
変化は技術革新のペースではなく、人間の採用ペースで起こる。大組織が変革的な技術を即座に採用しないのは、既存のワークフローや人員に投下された資本の埋没費用、規制や責任(リスク)上の制約、そして変化に抵抗する人々の存在があるからだ。
その結果、導入には年単位の時間がかかり、労働市場が調整する猶予が生まれる。AIではタイムラインが異なるとしても、電力やコンピューティングのような過去の汎用技術も、統合には時間を要した。電化は1880年代に商業的に利用可能になったが、製造業の労働市場を作り替えたのは1920年代になってからだった。プロセスを再設計し、労働者を再訓練し、新しい能力を軸に組織を作り直すのに40年を要したのである。
「AIは仕事を奪うのか?」という問いは誤っている。AIはすでに仕事を奪っており、今後も奪い続ける。より重要なのは、人間の選択、組織の適応、政策対応の速度が、AI導入の速度に十分近い形で追いつけるかどうかであり、そのコストを負担する人々にとっての移行期間をどれだけ圧縮できるかだ。歴史が示唆するのは、いったん展開された汎用技術は止められないこと、新たな雇用や別の支援手段はいずれ現れること、そしてその狭間に落ちた人間は常に代償を払うということである。AIは過去の何よりも速く、広範かもしれない。だが移行の長さや深刻さは、技術によってあらかじめ決まるのではない。それが進行する間に、私たちが何を選ぶかによって決まる。その違いを理解することは、少なくとも恐怖や希望よりも、より良い出発点となる。



