アメリカ、イスラエルによるイラン攻撃から引き起こされた世界的な混乱の中で、イランの人々は今、何を求めているのだろうか。
パーレビ王政時代から宗教と世俗、伝統と近代の対立があり、厳格なイスラム国家でありながらもイランの国民は、イスラム圏の中では最も世俗的であると言われている。世俗的とは、宗教性や精神性よりも、現実の生活や個人の実利を優先する態度を指す。一般に、近代化が進むほど世俗化も進行する。
信仰によってまとまる社会が良いのか、世俗的な社会が良いのかは、一概には言えない。しかしさまざまな危機や外圧に囲まれた国家が、しばしば国民への厳重な監視体制を強めていくことは確かだ。イランでは、反政府運動を招いてきたそうした自由の制限や監視以外にも、既得権益が守られコネがものを言うパーレビ時代からの社会構造が指摘されている。これもまた宗教圏、経済圏の違いに拘らず、権力体制の固定化がある限り現れやすい問題だ。
2022年に、ヒジャブの着用を巡って拘束された女性が、数日後に不審死を遂げたことから大規模な抗議運動が起こり、厳しく弾圧された事件は記憶に新しい。今回取り上げる『聖なるイチジクの種』(モハマド・ラスロフ監督、2024)は、事件当時の抗議運動と武力鎮圧の模様をニュースやSNS上の映像で多数取り込みつつ、首都テヘランの比較的裕福なある家庭が、徐々に崩壊していくさまを描いている。
ちなみに政府批判が込められているとして、ラスロフ監督は懲役8年、むち打ち、財産没収の実刑判決を受けドイツに亡命し、主演俳優二人も国外には出られない状況にあるという。本作はイランのイスラム共和国体制への批判だけでなく、宗教と世俗、伝統と近代の対立とその悲劇的な行方が、凝縮して描かれている点に注目すべきだろう。
ドラマのおおまかな構成は、ほぼ同じ長さの前半と後半に分けられる。映画予告に「家庭内で消えた〈銃〉。容疑者は父、母、姉、妹ーー」とあるように、父親が昇進を機に上司から渡された拳銃が失くなり、家族内で犯人探しが始まるというサスペンス要素が強調されている。
この拳銃紛失事件に至るまでの前半部に、後半部の息詰まる展開への伏線となる細部が、家族一人ひとりの描写を通して丁寧に散りばめられている。まずそれぞれの人物像を見てみよう。
政府の機密機関に長年勤務しようやく調査官に昇進したものの、命じられた仕事内容の理不尽さに悩む父、イマン。家族を支えるために仕事一筋で、家では妻を心から信頼し、娘たちには理性的で尊敬される父たらんとする彼は、伝統と信仰心を重んじる敬虔なムスリムとして描かれる。
生真面目な性格ゆえに、検事の一方的な命令に従って起訴状を読まずに署名することに、イマンは強い抵抗を覚えている。市民を取り締まる体制側で生きてきたとは言え、その仕事は虚偽の証明に繋がりイスラム教の教えに背くことになるからだ。
しかしながら、胸に手を当てて神への忠誠を誓う等身大のパネルが幾つも建てられた職場の廊下のショットは、そこがイマンにとっては絶対服従の場であることを示す。冒頭で護身用の拳銃を渡される場面で上司の顔が映されないのは、強大な権力が人の顔をしていないことを示すかのようだ。



