一方、自然現象としてのオスの乳汁分泌に関して生物学的に最も有名な事例は、実はヒトではなく、コウモリやオオコオモリに関するものだ。著名なものとしては、『ネイチャー』誌に掲載された、ダヤクフルーツコウモリ(学名:Dyacopterus spadiceus)に関する1994年の研究論文がある。
この論文の著者たちは、オスの複数の個体が、機能している乳腺を持ち、乳汁を生成しているところを目撃した。この観察報告により、ダヤクフルーツコウモリは、病気を原因とせず、自然な状態で乳汁分泌が確認された哺乳類で2例目の種となった。ちなみに、『Trends in Ecology and Evolution』に掲載された研究によると、もう一つはビスマルクオオコウモリ(学名:Pteropus capistratus)だ。
どちらの発見も、進化生物学者たちを驚嘆させた。それまで、乳汁の分泌は、哺乳類のあいだではメスに限られた適応だと考えられていたからだ。これを受けて、オスの乳汁分泌がこの2種のみに見受けられるのはなぜか?という、さらなる疑問が生まれた。
生物学者は、両方のケースにおいて、通常とは異なるホルモンの働きが絡んでいるのではないかとみている。一部のエビデンスからは、これらの種の個体の乳腺に存在する酵素が、男性ホルモンであるテストステロンを、乳汁の生成を促すホルモンであるエストロゲンに変換している可能性が示唆されている。
「オスの乳汁分泌」を阻む進化の壁
ダヤクフルーツコウモリやビスマルクオオコオモリのオスが乳汁を分泌する理由について、研究者は比較的確度の高い仮説にたどりついている。だが、さらに根本的な問題については、いまだに答えを見つけ出せていない。それは、哺乳類のオスが、乳汁分泌に必要な器官をすべて備えているのであれば、大半の種で実際には分泌することがないのはなぜか?という疑問だ。
進化理論からは、いくつかの説が提示されている。一つ目は、乳汁の生成は代謝系に多大な負担をかける、というものだ。子どもを生んだ哺乳類のメスは、母乳に含まれる栄養素や抗体、ホルモンを生成するために莫大なエネルギーを費やしている。このエネルギーコストは、多くの種に共通する生殖戦略を決定づける、中心的な要素となっている。
『Journal of Theoretical Biology』に掲載された画期的な研究論文は、オスの乳汁分泌が、進化のなかでほとんど登場してこなかった理由を検証したものだ。オスが実際に乳汁を分泌するようになれば、思春期や生殖において、ホルモン制御の発達過程に大きな変更が必要となっていたはずだと、この論文を著した研究チームは結論づけている。
簡単に説明するなら、メスの妊娠中に起きるのと同じような生理上の変化を、オスも経る必要が生じる、ということだ。そして進化の視点から見ると、これらの変化が、生物学的なコストを上回るアドバンテージをもたらすとは考えにくい。大半の哺乳類では、生まれた子にはメスがすでに母乳を与えており、オスは外敵からの保護、交尾機会をめぐる他のオスとの競争、なわばりの維持など、他の生殖戦略で貢献する仕組みができている。


