創業者ジェリーは1985年の創業以来、非遺伝子組み換えという信念を貫き続けた
1970年代後半、高校生だったジェリー・ローレンゼンは、現在は上場企業コルテバ傘下となったアイオワ州に本拠を置く種子会社パイオニアで夏の間働いた経験をきっかけに、自らも植物育種家になることを決意した。彼は、その後も長年、趣味として品種改良を続けていたが、1985年に自ら開発した品種の商業化に踏み切った。当時は幼い子どもが2人おり、銀行口座には250ドル(約4万円)しか残っていなかった。
ジェリーは、昼間は家畜用飼料を販売し、夜や週末にガレージで大豆の品種改良に取り組んだ。しばしば深夜まで作業を続けたという。彼はその後、トウモロコシの種子市場には競争相手が多すぎると判断し、大豆に集中する戦略を選んだ。当初から、高収量と高タンパク含有量を重視した品種の開発に取り組んでいた。最初に購入した機材は、50ドル(約7950円)でKマートで買ったプログラムを書くためのコンピューターだった。
PURISの創業初期は苦しい時期が続いた。バイオ工学を用いない従来型の育種では、成果が出るまで7年から10年かかる。それでもジェリーは諦めず、1999年に初めての品種を発表した。「素人の品種だ」と周囲に嘲笑されながらも、である。当時はモンサント全盛期で、遺伝子組み換え技術による育種が主流となっており、開発される作物はもっぱらエタノール・工業原料・家畜飼料向けだった。食品向けに種子を開発する育種家はほとんどおらず、味にこだわる者など皆無に近かった。
家族が何度か事業転換を勧めた後も、ジェリー・ローレンゼンは従来型の品種と遺伝子組み換え品種を混ぜることを拒み続けた。「遺伝子を自分で管理しなければ、すべてを失いかねないと父は昔から言っていた」とローレンゼンは冗談交じりに語る。
独立性を保つことは極めて重要だった。もしローレンゼンの父が創業初期に外部資金に頼らず事業を立ち上げていなければ、PURISが完全な「非遺伝子組み換え(non-GMO)」を維持することは困難だった可能性が高い。また、製造業が中国へ移転する中で中西部に残された工場を次々と買収することもできなかっただろう。そうした投資が、PURISが現在製造を100%米国内で行う体制を築く土台となった。
取引先の売却益がPURISへの投資につながり、種子業界の大規模な再編をくぐり抜ける
PitchBookによれば、PURISは2012年にバルバドス拠点の投資会社ポートランド・プライベート・エクイティから400万ドル(約6億4000万円)を調達した。それでも同社は、がむしゃらながらも質素な経営姿勢を崩さなかった。
その後2015年、PURISが原料を供給していたプロテインパウダーブランドのVegaが、ホワイトウェーブ・フーズに5億5000万ドル(約875億円)で買収された。Vegaの創業者チャールズ・チャンは売却益を元にプライベートエクイティ会社を設立し、その資金の一部をPURISに再投資した。
「私はVegaの事業に明確に不利益を与えるようなことはしないという競業避止義務を負っていた。だったら、Vegaに原料を供給している会社に投資すればいいと考えたんだ」とチャンは語る。「彼らは、莫大なコストと数々の障害を乗り越えてPURISを築き上げた。限られた資金の中で、いわば秘密開発部門のような体制を作り上げたんだ」。
この資金提供は、種子業界が大規模な再編に向かおうとしていた時期に行われた。当時、世界最大級の種子企業4社が2社へと集約される動きが進んでいた。2015年にはダウとデュポンが1300億ドル(約20.7兆円)規模の取引で合併し、2019年には両社の種子事業が分離されて、企業価値515億ドル(約8.2兆円)のコルテバとして上場した。この再編の最中、2018年にはバイエルが630億ドル(約10兆円)でモンサントを買収し、モンサントが抱えていた除草剤グリホサートをめぐる訴訟問題も引き継ぐことになった。
「流行の波に振り回されることもできるし、不況に飲み込まれることもある。でも、ただ目の前のことに集中してやり続けることもできる」とローレンゼンは語る。「ここには強い意志がある。我々はただ前に進み続けるだけだ」。


