デロイト トーマツは、2022年からレーシングドライバーの佐藤琢磨とテクニカルパートナーシップを締結し、脳科学とモビリティを掛け合わせた研究プロジェクトを推進してきた。
“次の飯のタネ”のひとつとして国家的に重点領域とされるブレイン・ニューロテック領域において、モータースポーツという「走る実験場」で磨かれた知見は、いかにして社会実装され、日本の新たな勝ち筋となるのか。佐藤琢磨とプロジェクトチームが語り合った。
ーーデロイト トーマツは、2022年から佐藤琢磨選手とテクニカルパートナーシップを開始し、脳研究プロジェクトに取り組んでいます。ニューロテクノロジーとモビリティのクロス領域を手がける理由についてお教えください。
雪野:現在の日本の産業政策において、ブレイン・ニューロテクノロジーは2040年以降を見据えたフロンティア領域として、国家的な重点施策のひとつに位置づけられています。CAGR(年平均成長率)は約15%と試算されており、実際に、25年7月にはNEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)の懸賞金活用型プログラムとして公募もされています。
竹井:背景にあるのは、20年代後半に予測されているAI学習用データの枯渇です。そこで次なる資源として、人間の生体データが注目されています。デバイスの進化によりイヤホン型などで日常的に計測できる環境も整いつつあり、AIが賢くなった先に残る最後の不確実性である人を理解する技術こそが、次の競争軸になると考えています。
そのうえで、デロイト トーマツがモータースポーツを支援する理由は3点あります。
第一に、モビリティ産業の構造変化です。近年、自動運転やSDV(Software Defined Vehicle)の進展によって、モビリティは単なる製造業ではなく、通信やデータ、コンテンツなど多様な産業と交差する領域へと広がっています。そうしたなかで私たちは、技術交流が図れるモータースポーツを、さまざまな業界をつなぐハブ、あるいは架け橋の象徴として位置づけています。
第二に、モータースポーツは機械を操るスポーツの頂点であり、最先端技術を試すことができる「走る実験場」であるという点です。極限環境のなかで、人とマシンの関係を検証できる場として大きな価値があります。
そして第三が環境面です。カーボンニュートラルや生物由来燃料などの技術開発をモータースポーツで実証し、その成果を社会へ還元していきたいと考えています。
今回のプロジェクトの起点となったのは、佐藤琢磨選手のような熟練者と私のような素人で、運転中の脳にどのような違いがあるのかという問いでした。これを解明できれば、より安全な移動の実現や加齢による機能低下を緩やかにするヒントも見つかるかもしれない。ビジネスの枠を超え、世の中のためという社会アジェンダにつながる取り組みだと確信し、佐藤さんとプロジェクトを推進してきました。
佐藤:資金提供に留まらない「テクニカルパートナーシップ」に強い意義を感じています。レースの現場でエンジニアと共にデータを効率的に整理・分析するツールを提供いただき、戦略立案の精度が向上しました。
モータースポーツにおける脳科学研究は、F1を頂点に欧州が先行しています。私としても、今回の研究成果を社会還元に加えて、次世代の育成につなげたいという思いがありました。私がプリンシパルを務めるホンダレーシングスクール鈴鹿でも、デロイト トーマツと構築したタレントマネジメントシステムを導入しており、脳科学を教育に応用する試みに可能性を感じていますね。
「究極の安全」と「居住空間」AIが先回りするクルマの未来
ーーモビリティ領域において、ニューロテクノロジーはユーザーへの価値をどのように変えるのでしょうか?
平井:現在、モビリティとニューロテクノロジーのかけ合わせは基礎研究から応用への移行期ですが、この技術を応用する方向としては大きく2つあると考えています。ひとつは「究極の安全」です。高速で動く巨大な車体は一歩間違えば命に関わります。事故ゼロを目指すうえで、脳科学は不可欠な技術です。
もうひとつは「移動空間の価値向上」です。自動運転化で車が「居住空間」になれば、そこでの居心地の良さが重要になります。今の車でもスケジュール連携や適温設定などのデジタルな快適さは実現されつつありますが、さらに発展させるには「凄く急いでいる」「落ち込んでいる」といった、本人が言語化できていない本質的な感覚を読み解く必要があります。こうした生体データを車側が先回りしてセンシングし、最適な状態を提供する。そんなデジタルを超えた人間中心の新しい価値提供が可能になると考えています。
佐藤:安全面でいうと、ロボティクスによるフィードフォワード制御技術など、ドライバーの意思を先読みする試みも進んでいます。ドライバーが何をしたいのかをシステム側が深く理解し、本人が気づかないレベルで微細にサポートしてあげる。この技術が進んでいけば、誰もが自分の運転が上手くなったように感じられて快適に運転できる時代が訪れることが期待できます。
ただ、現代の電子制御は極めて安定しているものの、私たちプロのドライバーからするとまだその制御は雑に感じる部分もあります。ドライバーは常に車と対話をしていますが、電子制御のない車のほうが一対一で対話できている感触があるのも事実です。
竹井:今後の車は、嗜好品として楽しむものと安全な移動手段としての道具、その両極端な方向に分かれていくと考えています。車を走らせる喜びも大事にする一方で、移動手段としては「動くリビングルーム」としていかに楽しめるかが重要になってくる。そして、脳科学の知見はその快適さと安全面のどちらにも活かせるはずです。
平井:脳科学とモビリティのかけ合わせは、人と乗り物が一体化する「人馬一体」をよりシームレスにしやすくする技術だと思っています。
クルマが完全自動運転になっていくと「モビリティは公共財化=皆で共有する」方向になるのではないかと言われますが、人間には自分の空間や物をコントロールしたいという欲求が本能レベルで刻まれているのだと思います。だからこそ、移動手段としてのモビリティをみんなでシェアする世界が広がったとしても、究極までカスタマイズされた「自分専用のモビリティをもつ喜び」という価値観はなくならないと考えています。
佐藤:今年2月に、フランスの「ラリー・モンテカルロ・ヒストリック」に参加しましたが、半世紀前の車が地域に愛され、文化として後世に伝えられている姿を目の当たりにしました。人間には面白みや目標が必要であり、車という大切な文化を環境やテクノロジーとうまく共存させていくべきだと改めて実感しました。今回のプロジェクトを通じて、完全自動運転だけでは得られない価値をデータとして示せたら嬉しいですね。
信頼をどう得るか?ニューロテクノロジーの社会実装のためのガバナンス設計
ーーニューロテクノロジーを社会実装し、ビジネスとして社会に浸透させていくために、解決すべき最大の論点はどこにあるのでしょう?
雪野:最大の壁は「解釈」と「倫理」の問題です。例えば脳波データが取得できたとしても、それをどう読み解くかという「解釈」には非常に高いハードルが存在します。そこでデロイト トーマツが取り組んでいるのが「もっともらしい推定アルゴリズム」の構築です。
車を運転していて「今、自分は注意散漫だった」とか「今はリラックスしていた」といった感覚は皆さんがもっています。この主観的な感覚とニューロテクノロジーが推定するアルゴリズムが合致するようになれば、安全安心という状態を客観的に立証することが可能ということになります。そのアルゴリズムの構築は時間をかけて進めているところです。
もうひとつ、重要なのが倫理的の問題です。やはり人のデータを扱うという点において、技術の難しさ以上に「どれだけ信頼を得られるか」という非常に高いハードルがあります。データを扱ううえで活用するAIには状況を誤って推定したり、人に対して過介入したりするリスクを孕んでいるからです。
だからこそ、私たちは社会実装のためのガバナンス設計を重視し、4つの原則を掲げています。
1つ目は「目的の限定」、2つ目は必要な特徴量・適切な範囲のデータのみを使用する「最小化」、3つ目はAIがすべてを決めつけない「段階的な介入」、そして4つ目が制御の理由を明示する「説明可能性」です。あくまで人間中心(ヒューマン・センタード)であり、私たちは「ヒューマン・アダプティブAI」として提唱しています。監視ではなく、その人の状態に応じて適切な環境を提供し続ける、という優先順位を間違えないことが重要です。
竹井:歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが警告するように、車に自分の全情報を分析されてしまうと、システムによって人間がハックされたり、常に監視されたりするという懸念が付きまといます。車が「運転者の調子がいつもと違う」と気づきケアにつなげられれば素晴らしいですが、一歩間違えれば、本人の意図しない方向に感情や行動を操作されてしまう。だからこそ、ガバナンスとその用途はセットで定めていく必要があります。
佐藤:市販車と違って、モータースポーツは人間同士の技術の争いなので、運転支援技術を禁止しています。しかし、モータースポーツも安全第一です。例えば、運転中に意識を喪失した際には、技術で感知をしてフェイルセーフとして車を停止させられるかもしれません。それは安全の観点からも非常に歓迎すべき未来です。
雪野:ニューロテクノロジーが進展すればするほど、人の負担は限りなく減らせる可能性に満ちています。一方で、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)が実装され、念じるだけで車を操作できるようになれば、今のお任せの自動運転とは真逆の、より能動的に車を自分の一部として操る「物の所有化」を体験できるようになるかもしれませんね。
日本の勝ち筋として、クルマに「和の心」を
ーー佐藤選手というプロフェッショナルの知見とデロイト トーマツの分析力を掛け合わせた今回のプロジェクトを通じて、日本の産業界が目指すべき未来像についてお聞かせください。
竹井:私たちは、ビジネスを加速させる「アクセル」と、リスクを管理しガバナンスを守る「ブレーキ」の両輪を担います。一歩使い方を間違えればリスクになる領域だからこそ、自動車業界などの命に関わる現場で培った知見を、他の業種にも還元していきたいと考えています。
雪野:ブレイン・ニューロテクノロジーはあくまでも人を理解するための手段であり、その知見は医療、エンタメ、教育、製造業など、あらゆる産業で活用の可能性があります。私たちデロイト トーマツとしては、ブレイン・ニューロテクノロジーを経営のなかにどう位置づけるかという構想策定から、現場のオペレーションまで一貫して支援できるのが強みです。
また、2026年2月に広告も発出されました「NEDO懸賞金活用型プログラム(脳由来信号を活用した新システムの開発)」も現在デロイト トーマツが事務局を担い進めています。国家として、日本発のニューロテック産業の“芽”を発見し、将来的な国際競争力につながる基盤を育てることを目的に事業推進しています。今後の本領域の指針を示す非常に大きなプロジェクトと思うので、是非その動向もウォッチしていただきたいです。
平井:私は、日本の自動車産業がかつてのパソコン、白物家電と同じ轍を踏むことに強い危機感をもっています。人的リソースの物量では中国やアメリカ、今後のインドには太刀打ちできないからこそ、日本の限られた資本を日本の強みとする領域に注力していかなければなりません。
日本の強みは、2000年以上の歴史で培ってきた「匠・オタクの文化」、「和の心」、「信頼」にあると考えています。この暗黙知をニューロサイエンスという新たな技術も用いながら言語化・パッケージ化し、車という「器」に実装する。海外の人が感じる「日本ならではの価値」をテクノロジーと掛け合わせ、唯一無二の価値としてグローバルに提案・提供していくことで新たな発展と成長の道を切り開くのではないかと期待しています。
佐藤:テクノロジーは、人間の可能性を奪うものではなく、心を豊かにし、人をより人間らしくするためにあるべきです。この「和の心」を宿した未来のモビリティをデロイト トーマツの皆さんと共に実現し、世界をリードしていきたいですね。
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デロイト トーマツ Emerging Technology はこちら
さとう・たくま◎プロレーシングドライバー、デロイト トーマツ Executive Evangelist。20歳で鈴鹿サーキットレーシングスクールに入り、モータースポーツの世界へ。2002年F1デビュー。17年と20年に世界三大レースのひとつ「インディ500」を制した唯一の日本人。19年よりHonda Racing School Suzukaのプリンシパルとして次世代育成に尽力。デロイト トーマツとは22年からパートナーシップを締結し、データに基づく競技力向上や社会課題解決を推進している。
ひらい・まなぶ◎デロイト トーマツ パートナー、コンサルティングAutomotive Unit Leader。デジタルを活用したビジネス企画構想、業務改革・改善、システム導入まで幅広い知見、経験をもつ。業務・システムの企画・構想だけでなく、それを現場に体現する実行力に強み。自動車OEM、自動車部品サプライヤー向けDXプロジェクト実績多数。
たけい・あきと◎デロイト トーマツ マネージングディレクター。主にモータースポーツ領域におけるスポーツ支援を専門とし、佐藤琢磨選手が出場するIndycarシリーズや、国内の別カテゴリのレースに参戦するチームに対して、データ分析を中心とした現場支援を行っている。
ゆきの・さつき◎デロイト トーマツ シニアマネジャー。DeepTechチームのNeuroscience(神経科学)領域をリード。最先端の脳科学・神経科学の知見とデジタル技術を活用し、企業のイノベーション創出や新規事業開発、ヘルスケア分野での課題解決に広く取り組んでいる。特に自動車業界向けには、Neuroscienceを活用した次世代車両の機能開発支援や車室空間の最適化などのプロジェクトを推進。



