40歳前後になれば、多くの人は過去の小さいことが統合されていく大事さに気づくものだとよくわかりました。30歳前後で気づくのは、スポーツを熱心にやってきた人、あるいは20代で既に起業した人という傾向もありました。
ただ、早く気づけばハッピーな人生とは必ずしもいえません。その人の人生を分けるのは、解釈は何度もし直すものだ、と気づくかどうかだとぼくは考えました。よく「思考がとまる」という言い方をしますが、それは「再解釈への意欲を喪失する」ということなのですね。さらに、再解釈への意欲が尽きない人はノスタルジーに耽らない人である、とも言えそうです。
ところで先月、ミラノ工科大でロンドンのデザイン会社、ペンタグラムのパートナーであるハリー・ピアースの講演がありました。彼は10月に京都で開催予定のトリエンナーレの準備を進めている仲間の一人ですが、世界ペンクラブやグッゲンハイム美術館のロゴなどややビジネス分野とは距離をもつ組織のロゴなども手掛けてきたデザイナーであり、アーティストです。
彼は「デザインによって生きる」という講演タイトルで話したのですが、T.S.エリオットの詩『リトル・ギディング(Little Gidding)』の一部を引用しました。次のような表現です。
「……あくなき探求の終わりに、 私たちは始まりの場所へと行き着く。そこで初めて、その場所がどんな所だったのかを理解するのだ」
前澤さん、この詩は、今回の話題にバッチリだと思いませんか? 始まりの場所の意味は長き探求プロセスを経てやっとわかるのです。
我々の新しいラグジュリーのオンライン講座(6期目)に参加してくださった藤原清道さんが卒論として『新しいラグジュアリーは、問いを増やす』という文章を書いてくれました。そのなかの次の部分は、まさにT.S.エリオットの言わんとしているところです。
“「終わったー!」「やりきったー!」という清々しさのないプログラムから私が得たものは、過去の自分が受け取れなかったものを、受け取れるようになる「高性能アンテナ」だったのだと、今になってはっきり理解しています”
ここにラグジュリー、いや、正しく言うと新しいラグジュリーの醍醐味が表れています。解釈に解釈を重ねていくと新しい側面が見えてくるのですが、さまざまに織りなすようにしてある数々の解釈の上に新しい側面が浮上するから味わい深いのです。
古いラグジュリーが色褪せてきたのは、同じ解釈に基づく凡庸なストーリーテリングに心が動かされなくなってきたからではないかと思っています。だから、常に探索の途上であろうとするのが新しいラグジュリーにとって必須の心がまえである、と言えそうです。


