「思考がとまる」とは何か 再解釈の価値

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人はあらゆる経験を常に解釈し続ける存在である──ということを前澤さんの紹介する「再話」という言葉から思いました。

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多くの文学作品が映画になるのも再話のひとつであり、どちらのメディアのどのような解釈が一番好きか? というのが話題になります。最近、日本のTVドラマの多くは原作が小説ではなく漫画ですよね。それらのドラマをよくみるのですが、話の運びやリアリティの度合いによって、「あ、これは漫画がオリジナルだな」と判断することが多いです。再話のバリエーションが広がっているのでしょう。 

さて、歴史学者は何百年以上にもわたってある時代を解釈しまくります。これを再話のカテゴリーに入れるのは拡大し過ぎかもしれないですが、再話を解釈と再解釈の繰り返しというカテゴリーで考えたいです。

例えば、ヨーロッパの「中世」という時代はルネサンス期を経た後に、古代ローマでもなくルネサンス期でもない中間時期としてつけられた名称です。中世に生きた人が間の時代であるなどとは認識するはずがないです。後の時代の人間により「中間に位置する時代」としか言いようがない時代と解釈されたわけです。

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1980年代、世界のデザイン界の話題をさらったメンフィスというグループがありました。ミラノを拠点にエットーレ・ソットサスが国際的なチームをリードし、まったく新しいデザイン言語を打ち出しました。一見、実用性とは縁遠いと思われる形状とカラフルな表現が特徴で「ポストモダンのリーダー」と呼ばれましたが、ソットサスはこの呼称を嫌いました。「およそモダンデザインって何なのだ?」と付け加えて。これも安易はモダンの定義に対する批判的解釈です。

再解釈の大切さは他の分野にもまだまだ適用できます。

江戸時代の寿司において、熟成された魚を重用する文化がありました。しかし、冷凍技術の発達で新鮮な魚を保存することができるようになると熟成魚の需要が減るだけでなく、魚の熟成という価値自体を忘れていきます。それが復活するのは今世紀に入ってからで、その美味しさの再発見とフードロス問題という環境への関心が後押しをします。これも熟成の価値の再解釈であり、発酵文化の再評価も近い位置づけと考えられます。 

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再解釈はこのように時代を超えた次元だけでなく、実は個人の人生においても適用できます。ぼくは10年以上前、ある経済誌オンラインに「イタリアオヤジの趣味生活」という連載を書いていました。

子どもの頃から若い年代までは、自分が経験することが長い人生のなかでどのような意味をもつのか理解しづらいものです。誰もが「なぜ、こんな小さいことに拘らないといけないのか?」「今やっていることが将来役に立つだろうか?」と疑問を持ちながら生きていきます。それがある年齢に達したとき、それらの数々の経験がひとつのカタチになってくることを実感するものです。

例えば、趣味もその「小さいこと」のひとつです。そこで、面白いイタリア人が紹介してくれる他の面白い人の繋がりを頼って、一人一人にインタビューしていったのです。この企画を通して、70人近くの人生を知ることができました。

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文=前澤知美(前半)、安西洋之(後半)

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