アート

2026.03.30 10:15

名画『ヴィーナスの誕生』、なぜヴィーナスに「へその緒」がないのか?

Getty Images

彼女は泳いでいるのではない。

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ただ沈んでいるのだ。

よく見てほしい。彼女の口元を。かすかに開いた唇、それは「最期の歌」を歌っているからだ。歌いながら、死んでいく瞬間なのだ。

この少女の名はオフィーリア。

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シェイクスピアの悲劇『ハムレット』に登場する、最も哀れな犠牲者だ。

かつて彼女は、誰もが羨む令嬢だった。恋人は王子ハムレット。幸せな日々が永遠に続くと信じていた。

しかし、ハムレットは父王の亡霊に取り憑かれ、復讐の鬼と化した。

優しかった恋人は、オフィーリアを「尼寺へ行け!」と罵り、冷たく突き放した。

そして決定的な悲劇が起きる。

ハムレットが、物陰に隠れていたオフィーリアの父を、仇と間違えて刺し殺してしまったのだ。

恋人に捨てられ、その恋人に父を殺された。温室育ちの彼女の心は、粉々に砕け散った。狂気に陥ったオフィーリアは、意味不明な歌を歌いながら城をさまよった。

「もう帰ってこないのかしら?

ああ、死んでしまった、あの人は。私も死の眠りにつこう」

そしてある日、川辺で花冠を作っていた時、柳の枝につかまろうとして川に落ちた。

狂気ゆえに自分の死に気づかない

ここからが、この絵の描く恐ろしい場面だ。

正気の人間なら、必死にもがいて岸に上がろうとするだろう。

もしくは、助けを求めて叫ぶはずだ。

しかしオフィーリアは違った。

狂気の中にいる彼女は、自分が川に落ちたことすら理解できなかった。

彼女はただ、美しい歌を歌い続けた。ドレスが水を吸い込み、どんどん重くなっても。そして冷たい水が肺に入り始めても。

まるで花畑で昼寝をしているかのように、穏やかに。

周囲に散らばる花々を見てほしい。

赤いケシは「死」を、忘れな草は「私を忘れないで」という思いを、パンジーは「無駄な愛」を表している。

これらは彼女が作ろうとしていた花冠の花だ。

つまりこの絵が描くのは、狂気ゆえに自分の死に気づかない少女が、美しい歌を歌いながら、ゆっくりと川底に沈んでいく瞬間なのだ。

【Summary】
彼女は決して泳いでいるわけではなく、このまま沈んでいく。

文=井上響/美術史作家、美術史ソムリエ

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