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2026.03.12 11:15

静寂と絢爛が再び出会うとき |宮田裕章の「辺境」未来論 第3回

しかしそれでもなお、通常であれば厳格に隔てられていた社会的距離が、一時的に揺さぶられたことは確かである。秩序は維持されたまま、その輪郭がその日だけ別様に見えた。その経験の強度が、この場所に特有の記憶を刻んだ。

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そしてこの揺らぎは一度きりでは終わらなかった。阿国歌舞伎が京都に新たな身体表現の熱狂をもたらした時代、北野天満宮はその越境する芸能文化の重要な磁場となった。信仰と権威の場でありながら、制度の管理下にはない身体と感情がにじみ出す。さらに近世を通じて、北野は天神信仰、連歌、縁日、花街という異質な文化圏が同じ境内に隣接し続ける場であり、それぞれの論理は決して統合されないまま、互いの存在によって変質し続けた。

「中心」に生まれるもうひとつの辺境

本連載の第1回で、私は「辺境」を、地理的な周縁だけでなく、20世紀型の標準化されたシステムや強固な経済合理性に完全には回収されず、問いと実験の余白が残された場所として定義した。今回、視点を京都の都心に移すことで浮かび上がるのは、辺境の別の位相である。

北野天満宮の特異性は、それが「中心」にありながら、複数の制度が重なり合うがゆえにどの単一の秩序にも完全には属さない、という構造にある。聖と俗、権力と芸能、祈りと祝祭──いずれか一方に還元されることを拒む、その不安定な多重性そのものが、ここでは「辺境」として機能してきた。地理的な中心にある場所がすべて辺境になるわけではない。北野に固有なのは、この不可還元的な多重性だ。

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このプロジェクトにおいて、私がクリエイティブチームEiMの一員としてここで挑むのも、そうした多重性の力を借りたアプローチである。それは過去をガラスケースに入れて保存・鑑賞する文化の扱い方とも、あらかじめ設定された単一のカタルシスへと体験を収斂させる現代の消費の論理とも、少し異なる方向を向いている。市場が求める「わかりやすさ」と、制度が求める「正統性」は、一見別のもののようでいて、どちらも体験を予測可能な枠へと回収しようとする点で通底している。その外側にある、取りこぼされてきた感覚やノイズに手を伸ばすこと。それがここでの実践の企図であり、その企図が体験の中で実際に作動するかどうかは、まだ開かれた問いのままだ。

本プロジェクトでは、梅が枯木から満開へ、そして新緑へと移ろう季節の循環を一つの軸に据えている。梅苑に広がる《光と花の庭》のクリスタルが、季節や光に応答しながら揺らぐとき、静寂と祝祭の気配は、分離されたものではなく、同じ循環の異なる相として立ち上がってくる。また茶室で展開されるインスタレーション《残照》では、咲き誇る花と枯れゆく花が同じ空間に置かれる。それは、完成された美だけを肯定することでも、傷や喪失を安易に美化することでもない。失われたもの、取り返せないものを含んだまま、なお次の季節へと開かれていく──その境目の感覚に触れるための提案である。

そして、このプロジェクトの一環として3月20日から始まるイマーシブシアター「花宵の大茶会(DAZZLEと蜷川実花withEiMの共同制作)」では、史実には存在しなかった北野大茶湯の「幻の二日目」が描かれる。

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文・写真=宮田裕章

連載

宮田裕章の「辺境」未来論 ──Resonant Regions

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