数週間前、友人のスーザンは新入社員向けのオンボーディング(新入社員の受け入れ・定着支援)ミーティングを担当していた。大企業ではよくある光景だ。新しい顔ぶれが次々と入室するなかで、とりわけ目を引く人物が1人いた。Meta Ray-Ban(メタ レイバン)グラスをかけた若い男性である。彼女の目には録画や写真撮影をしているようには見えなかったが、それでも居心地の悪さを覚えたという。数日後に会ったときも、彼女はまだ自分の考えを整理している最中だった。会社には強固なプライバシーポリシーがあり、スマートフォンの使用に関する明確なガイドラインもある。それでも、スマートグラス向けのポリシーはまだ誰も作っていなかった。しかし今年、より多くのグラスが市場に出てくれば、企業はこの問題に目を向け始める必要がある。プライバシーを守りながら、スマートグラスが今後数年で主流になり得るという現実を受け入れる。その両立を図らねばならないのだ。
歴史書を読んだことがある人、あるいはスパイ映画を観たことがある人なら誰でも知っているとおり、機密情報の漏えいは、スマートグラスどころかスマートフォンが登場するはるか以前から技術的には可能だった。人々は会議にテープレコーダーを忍ばせ、やがてはポケットに隠したスマートフォンで録音するようになった。さらには、堂々と録音することすらある。多くの場面で、手にスマートフォンを持っていないほうが不自然に見えるほどだ。加えて、人間の愚かさという問題もある。ある法律事務所のシニアパートナーが電車内で大声の通話をし、「これは機密だ」と公共の場で最大音量のまま叫び続けたという逸話は秀逸である。その場には記者も乗り合わせていた。軍事行動に関するグループチャットに高官が誤って記者を追加してしまった件も、忘れてはならない。
それでは、なぜスーザンはスマートグラスにこれほど不安を抱いたのか。1つには、この技術がいまだにGoogle Glass(グーグル グラス)の時代から立ち直れていないことがある。当時、サンフランシスコでは「顔に装着するコンピューター」を身に着けた人々に反発が起きた。しかしあれから長い年月が過ぎ、ソーシャルメディアとスマートフォンが普及するなかで、撮影や録音に対する私たちの態度も変わった。公共の場にいる限り、人は記録されている可能性が高い。ドアベルカメラ(玄関チャイム一体型の監視カメラ)やCCTV(監視カメラ)、あるいはスマートフォンで動画を撮る誰かによって。
「でも、スマホなら見えるでしょう」とスーザンは私に言った。「それに比べてグラスだと、録画ランプがあるとはいえ、私は信用できない気がする。それに、グラスをかけている人が、画面で何を見ているのかも分からない」
まさにそこが問題である。スーザンの懸念はハードウェアそのものというより、信頼と社会規範に関わる。私たちはいくつかのシナリオを想定してみた。仮にその人物が録画して機密情報を売ろうとすれば、訴追の対象となり、おそらく容易に発覚する。そんなリスクを誰が冒すのか。単にオフィスで人の写真を撮っただけならどうか。つまり、その写真を侵害的あるいは邪悪な形で利用しない限り、それで世界が終わるわけではないだろう。あるいは、相手が人の名前を覚えるのが苦手だったり、相貌失認(顔を識別することが難しい状態)だったりして、写真を使って「誰が誰か」を確実に覚えたかったとしたらどうか。
職場でグラスを装着することの潜在的なメリットにも踏み込むと、スーザンは考えを改め始めた。たとえば、他言語のほうが安心できる人のためのリアルタイム翻訳、聴覚障害のある人のためのリアルタイム字幕、視覚障害のある人のためのオプトイン(利用者の同意を前提とする)顔認識、スマートフォンを見て会議の流れを途切れさせずに済む通知機能などである。とはいえ、彼女の最初の反応は正当であり、今年スマートグラス市場に参入するすべての企業にとって問題になり得る。
当然ながら、グラスには録画や写真撮影の状態を示すライトが必要であり、そのライトは覆い隠しにくい設計でなければならない。しかし、それだけでは足りない。特定の状況におけるグラス使用について、社会規範を育てていく必要がある。私的な場で撮影や写真撮影をするなら、相手に事前に知らせ、相手の境界線を尊重すべきだ。スマートフォンを持ち込めない空間はスマートグラスも持ち込めないようにすべきだが、日常的な装着という観点では、とりわけ公共の場では、グラスの着用は認められるべきである。
最近では、複数の女性が、男性が許可なくグラスで近づいてきて撮影したと報告している。これは明らかにひどい話だが、テクノロジーの問題ではなく男性の問題である。もし女性側もグラスを着用していれば、相手を撮り返して、食事を待っている最中に絡んできた不快なインセル(自称「非自発的独身者」)について皮肉な動画を投稿することもできただろう。オフィスでもレストランでも、解決策は同じだ。嫌がらせと同意に関する社会規範をつくることである。スマートグラス企業は、これらの規範を広告や情報発信で示すことから始められる。グラスが普及するにつれて、人々は適応し、状況は調整されていくと信じることだ。しかし現時点では、新しいテクノロジーを禁止したり制限したりするよりも、チームや企業内の信頼を築くことのほうが、はるかに大きな効果をもたらす。



