黒川公晴氏。外務省所属の外交官としてワシントンDC、イスラエル/パレスチナに駐在。2013年に帰国後は安倍晋三首相や岸田文雄外相の英語通訳を務める。
しかし、入省12年後には外交官職を辞し、仲間たちと福岡・糸島に拠点を移して起業。現在は日本企業向けの適応型リーダーシップ開発プログラムを展開している。
その理由は「国益と価値観がぶつかり合う前線に立つ中で、個と組織のあり方に強い関心を持った」だが、その真意とは─。そして氏が国際外交の舞台でしのぎを削り、起業を経てたどりついた「リーダーシップ」の定義、また自らビジネスを生み出す上で不可欠な「余白」とは。
国同士の関係も結局、「人と人の関係」
編集部(以下、─):外務省で12年間外交官を務めたあと、現在は企業向けにリーダーシップ開発の仕事をされています。一見まったく別の道に見えますが、どのような経緯での転身でしょうか。
黒川公晴氏(以下、黒川):実は、外務省での仕事がきっかけでリーダーシップ開発に目覚めたわけではないんです。社会人になった頃からずっと、人と組織の関係はどうあるべきかというテーマに関心がありました。
外交官になると海外の大学院に留学させてもらえるのですが、周囲が公共政策や国際関係学を学ぶ中、私は組織開発学─組織の中で人がどう成長し、どう協働するかを研究する学問を選んで、ペンシルベニア大学に留学しました。
大人になっても人は成長する。ならば、生活のほとんどの時間を過ごす組織は個人の自己実現をどうやって担保すべきなのか。組織に入ってコマのように扱われて働くのは、人が自己実現しながら成長していくあり方としては望ましくない。組織のミッション達成と個人のそれが合致する道はきっとあるはずだ─外務省でもそういう問いをずっと抱えながら働いていました。

━━その問いが、外交の現場で働くなかでふくらんでいったと?
黒川:はい。外務省での仕事はエキサイティングだったし、やりがいも意義も感じていました。ただ、そのなかでむしろかねてからの「問い」が洗練されていったんです。
外交の現場で国と国の関係という非常に大きなスケールの話をしていても、落とし込んでいくと実は「人と人の関係」で決まることが多い。感情も価値観も全然ちがう人間同士が、対話を通じてソリューションを見つけていく世界です。国が政策や戦略を決めても、実行するのは人であり、グループです。その人たちが組織のミッションにどれだけ足並みを揃えられているかで結果が変わる。
個人のパフォーマンス、エンゲージメントやモチベーションのレベルも、チームとの相互作用でまったく変わってきます。たとえば課の雰囲気、課長とのコミュニケーション一つで、仕事への向き合い方も変わります。その延長線上にどんどん伸ばしていったところに組織があり、社会があり、国がある。外務省の12年間は、そういうレンズで世界を見続けた期間でした。
━━通訳のミッションはご本業ではなかったようですが。
黒川:はい、通訳官は副業みたいなもので、普通に本業があるんです。日米安保を担当した時期もあれば、オーストラリアやニュージーランドなど大洋州外交をやった時期もある。イスラエルでは日本文化を現地に広めるアートプロモーション─企画してイベントを打つ、イベンターみたいなことをやっていました。
最後は国際法局の条約課にいて、条約の交渉支援を行なっていました。条文の解釈整理だけでなく、既存の条約との整合性や国内法への影響などを精査するという仕事です。そういった本業をやりながら、「今度、外相会談があるけど通訳できる?」とタスクが飛んでくる。そんな感じでした。
━━個人の延長線上に組織があり、社会があり、国がある、その逆もまた真、という尺度を持ったまま12年、最終的に外務省を離れる決断をされた。しかも東京ではなく、福岡の糸島に拠点を移されています。
黒川:どうしても組織と人の関係を人生のテーマにしたくなって退職し、幼なじみたち5人と声をかけあって同じタイミングで仕事を辞め、東京を出て、糸島で起業しました。
私たちの会社が唯一掲げている理念が「プレイフル」なんです。他者に規定されるのではなく、自分の心から「こうありたい、やってみたい」ということを表現し、それをもとにビジネスを生み出したり、組織を作ったりしていく。それをやるには、ある程度の「余白」が必要なんですよね。心の余白、立ち止まって考える時間。常に忙しく動かされている状態はできるだけ避けたくて、糸島にしました。



