ハイパフォーマーが滅多に語ることのないある種の消耗がある。語らないのは失敗のようには見えないからだ。それは献身のように見える。必要以上に綿密に準備し、求められる以上に成果を出す、一層の努力のようだ。外から見れば、それはまさに卓越性そのものに映る。
実際はそうではない。それは一線を超えた過剰提供であり、私が支援してきたリーダーたちの間で最も一般的かつ犠牲の大きいパターンの1つだ。
経済学にはこれを表す言葉がある。限界収益逓減だ。インプットがある水準を超えると、追加の努力は前の努力よりも少ない成果しか生まない。やがて何も生まなくなる。さらに進むと、むしろマイナスになる。本来別のところで増えるはずだったはずのエネルギーを消費してしまう。
米スタンフォード大学の研究では、週労働時間が50時間を超えると1時間あたりの生産性は急激に低下し、55時間を超えるとさらに働いても総生産はむしろ減少することが示されている。特に知的労働者の場合、動機や意図にかかわらず真に質の高いアウトプットは1日あたり平均5〜6時間にとどまり、それ以上働いてもアウトプットは頭打ちになる。
これは時間管理の問題ではない。ハイパフォーマーは時間管理の術を知っている。これは構造の問題であり、カーブが平坦化する前にそれを認識できないこと、そして代償を払う前に努力の方向を変えられないことが問題なのだ。
過剰提供パターンが微妙である理由
このパターンに最も陥りやすいリーダーは、惰性で働いている人ではない。品質やチーム、状況を正しく理解することを最も気にかけている人だ。彼らの過剰提供は怠惰の偽装ではない。誠実さの偽装だ。
そしてそれは、ある意味でコントロールの一形態でもある。やり過ぎることは、結果が不確実な状況で自分は重要かつ優れた存在、あるいは不可欠な存在だと感じるための、自分を高める偽装行為であることが多い。
このパターンは私自身の仕事にもある。最近、あるコンテンツシリーズに本来の形式が吸収できる以上に多くの時間と創造エネルギーを費やしている自分に気づいた。信頼する同僚からは、エッセーは共鳴を呼ぶ内容で、よく練られていると言われた。しかし同時に、盛り込みすぎだった。
読者に必要だったのは、処理しなければならない多くの情報ではなく、思考のための余白だった。私の努力はすでに最大の価値を生んでいた。それ以上行うことは、より大きな影響を生むはずの戦略的な仕事を圧迫していた。私は構築すべきときに発信していたのだ。
米経営学誌ハーバード・ビジネス・レビューに最近掲載された、世界のプロフェッショナルファーム150社を対象に行われた研究は、過重労働は個人の失敗ではなく構造的な問題だと指摘している。止まる方が賢明である場合でも止まることはできないと感じさせる組織のスピード感や昇進制度、常時対応することを当然とする文化的期待によるものだ。パターンはシステム的だ。しかし大半のリーダーにとって最大の効果を生み出すレバレッジポイントは、個人にある。天井にぶつかる前にカーブを見抜くことだ。



