多くのマネージャーは、劇的なかたちで権威を失うわけではない。怒鳴り、取り乱し、目に見えて崩れていくこともない。むしろ多くの場合、権威は静かにすり減っていく。
その場では合理的に見える小さな習慣を通じて、権威は薄れていく。判断を必要以上に説明する。基準を押し付けたことを謝罪する。明確さが必要な事柄で合意を求める。
いずれの行動も、協働的に感じられる。思慮深く、配慮が行き届いているようにも見える。だが時間が経つにつれ、逆の効果をもたらしうる。
リーダーシップを和らげたくなる本能
現代のマネージャーには、親しみやすさが求められる。共感的であることも、包摂的であることも求められる。命令と統制によるリーダーシップの時代が広く批判されているのは、もっともな理由があるからだ。
しかし、硬直性を退けるあまり、多くのマネージャーは過度に修正してしまう。権威を支配と同一視し、権威主義的に見られないためには自分の決断力を薄めなければならないと思い込む。だから過剰に説明する。先回りして正当化する。方向性を示したことに謝罪する。決定をコミットメントではなく提案のように位置づける。
謙虚さとして始まったものが、ためらいに変わってしまうことがある。権威は厳しさを必要としない。だが、明確さは必要だ。
過剰な説明が疑念を示すとき
判断を説明すること自体が問題なのではない。透明性は信頼を築く。問題は、説明が正当化に変わるときに起きる。
マネージャーがあらゆる判断を長々と弁護しなければならないと感じているとき、その多くは不確実さを示している。詳しく説明すればするほど、その判断は交渉可能に見えてしまう。
リーダーの見え方に関する研究は一貫して、能力以上に自信が権威の解釈を左右することを示している。コミュニケーションがためらいがちに聞こえると、受け手は弱さを読み取る。
皮肉なことに、過剰な説明は、マネージャーが避けようとしていた挑戦そのものを招きかねない。チームメンバーは、その判断が議論の余地のあるものだと感じてしまう。たとえそうではなくてもだ。過剰な背景説明によって、明確さがかえって曖昧になる。
絶え間ない謝罪がもたらす代償
謝罪は、害が生じたときに重要だ。信頼を修復し、責任を認める行為でもある。だが、通常のマネジメント行動に対する習慣的な謝罪は、権威を損なう。
「申し訳ないが、この締め切りには間に合わせる必要がある」「頼みにくいが、これは修正が必要だ」「厳しくして申し訳ないが、これが期待値だ」
こうした言い回しは、基準が不合理であるかのように、あるいはそれを徹底することが残念なことのように、さりげなく示唆する。時間が経つにつれ、リーダーシップの受け止められ方を変えてしまう。
権威は一部、正統性に支えられている。マネージャーが自分の期待が負担だとか不公平だと繰り返し示唆すれば、周囲もそう扱うようになる。尊敬が薄れるのは、対立を通じてではなく、疑念を通じてである。



