アルコールの消費は減少していると言われている。1日2杯が健康の妙薬だという長年の触れ込みは、どうやらそうではないらしい。
アルコール消費の減少は、議員たちの強制なしに起きている。自分にとって良いことをするのに、誰が法律を必要とするだろうか。喫煙についても同様だ。
最近のウォール・ストリート・ジャーナルの見出しはこうだった。「若者向けSNS禁止が世界的に勢いを増す」。SNSは有害だとされている。
しかし、あらゆる年齢層でSNSが利用されている事実が示すように、SNSは数十億人にとって有益なものだ。昔の友人とつながる手段であり、自分と同じ考えの人とも異なる考えの人とも新たな友人関係を築ける場であり、専門家からも非専門家からも独自の見解を含む情報が得られる場であり、何より時に孤独を感じる世界において常につながりを保てるコミュニティなのだ。かつては対面か、高額な長距離電話でしか実現できなかった常時接続の何がそれほど問題なのだろうか。
ウォール・ストリート・ジャーナルが触れたSNS禁止は若者向けであり、SNSが彼らに害を与えるからだ、と指摘する向きもあるだろう。わかった。では、その証拠はどこにあるのか。
SNS上で若者をからかったり、いじめたりする荒らしがいるとか、SNS自体が理想化された人々や世界を見せつけて若者を卑下させるといった主張だけでは不十分だ。からかいやいじめは決して新しい概念ではない。SNS以前の時代を覚えている親たちなら間違いなく証言できるはずだ。理想化された人々や世界のイメージについて言えば、スポーツ・イラストレイテッド誌の水着特集をめぐる毎年の論争や、美しい人々とその恋人たちを持ち上げる10代向けの数多くの雑誌を覚えている人はいないだろうか。
SNSに関する「今回は違う」という物語とは裏腹に、テレビ、コミック、車、ラジオ、そしてそれ以前にもきっと何か「ひどいもの」とされたものの悪影響についての嘆きが繰り返されてきた。しかも、親や祖父母、曽祖父母がどうにか無傷で生き延びてきた過去の「脅威」とは異なり、SNSとそれを利用するデバイスによって、親たちはついに子どもが何を見るかをある程度コントロールできるようになった。
法律を作りたがる人々が、自分たちが悪者扱いするデバイスに実際に触れてみれば明らかになることだが、そのデバイスの料金を払っている親は、スクリーンタイムをコントロールできるだけでなく、画面に表示される内容もコントロールできる。子どもが見るべきでないものを見ようとすれば、親にまず通知が届く。連絡を取るべきでない人物から連絡があれば、親に通知が届くか、追跡できるか、あるいはその両方が可能だ。子どもがヌード写真を送受信すれば、その写真はぼかし処理される。SNSを使う子どもの親にとっておそらく最も重要なのは、過去とは異なり、子どもの居場所を常に把握できることだ。
要するに、自由な人々はSNSの良し悪しを議論することができるし、そうあるべきだ。だが、同意しない人々に自分の見解や不安を押し付けてはならない。そして、自称SNS警察に同意しない人は数十億人いる。
法律を作るのではなく、自由な人々に判断を委ねるべきだ。特に子どもに関わる重要な問題については。良い親子関係の成果を法律で実現できると考えるのは、あまりにも幼稚だ。それは親であることの幼児化にほかならない。選択の自由のほうが優れている。
SNSが本当に有害なら、親は子どもから遠ざけるのに強制を必要としない。言い換えれば、それほど悪いのなら、なぜ禁止する法律が必要なのか。



