私は成人後の人生の大半をビジネスに費やしてきた。築き、壊し、そして築き直す。そのなかで、何度も立ち返ってきた言葉がある。
幸福とは、現実と調和することである。
シンプルな言葉だ。拍子抜けするほどに。だが、シンプルであることは容易であることを意味しない。まして受け身であることを意味するはずもない。今日のビジネス環境は、調和とはほど遠い。
オーナーは経営陣に対し、数字上は見栄えがする一方で、顧客体験を静かに蝕み、時間をかけてブランドを損なう四半期業績を求めて圧力をかける。板挟みになった経営陣は、その圧力を「達成不能な期待」へと翻訳する。すると管理職は、暗に、あるいは明確に、より少ない人員から、より多くの成果を、より速く、より安く、そして失敗の余地を小さくして引き出すことを求められる。
では現場の働き手はどうか。彼らもまた、より多くを望む。より高い収入。より大きな柔軟性。より多い承認。より多い機会。しばしば、それらを同時に求める。
誰もが引っ張り合い、誰も自分の声が届いていないと感じている。そして誰もが、自分こそが本当の犠牲を払っていると思っている。この緊張は新しいものではない。新しいのは、それを正直に認めようとしない態度である。
緊張のシステムとしてのビジネス
ビジネスは道徳的な欠陥ではない。トレードオフのシステムである。よく私は「四方から圧力を受けるダンス」だと言う。その緊張をうまく舵取りできれば、利益が生まれる。否認したり歪めたりすれば、文化が崩壊する。
ストア派は、貸借対照表が生まれるはるか以前から、このことを理解していた。
エピクテトスは、苦しみは出来事そのものからではなく、それに対する私たちの判断から生まれると書いた。現代的に言えば、いら立ちは圧力によって生じるのではない。圧力が「こうあるべきだ」という非現実的な期待によって生じるのである。
絶え間ない緊張のもとで帝国を運営したマルクス・アウレリウスは、こう言い切っている。「あなたは外部の出来事ではなく、自分の心を支配できる。これを悟れば、強さを見出すだろう」
現実と調和するとは、現実を好きになることではない。現実を明晰に見ることだ。
3者の静かな断絶
今日、多くの組織には、静かな3者間の断絶がある。
オーナーは収益性、スケール、そして選択肢の拡大を求める。もっともである。資本はリターンを生み出すために存在する。だが、利益がそれを生み出す人のシステムから切り離されると、有能な人材は静かに去る。文化は腐食する。顧客はスプレッドシートより先にそれを感じ取る。
管理職は燃え尽きや「カルチャー」を、意欲低下や離職の理由として挙げる。正しい場合もある。だが多くの場合、本当に欠けているのはツールである。権限はあっても裁量がない、責任はあってもリソースがない、説明責任はあってもサポートがない。これは有害な文化ではない。構造の失敗である。
働き手はしばしば、より多くを、しかもはるかに多くを求める。しかし価値創造、タイミング、あるいは「得たレバレッジ」について明確な理解が伴わないこともある。信頼性を伴わない柔軟性、熟達を伴わない承認、説明責任を伴わない収入を望むことがある。いつもではないが、しばしばそうである。
このどれもが誰かを悪人にするわけではない。人間であるというだけの話である。
調和とは合意ではなく、「あるがまま」を受け入れること
アリストテレスは幸福(エウダイモニア)を快楽ではなく、現実に即した正しい行為、すなわち徳によって花開くことだと定義した。これは現代の企業向けウェルネス標語とは隔たりが大きい。
現実と一致する、すなわち調和するとは、現状に「まあいい」と思うことではない。ビジネスのあらゆる段階、あらゆる役割、あらゆる業界で、不満の種は常に存在する。
私の見立てでは、「こうあるべきだ」を論じる前に「いま何があるか」を認めることを意味する。
オーナーは利益を押し上げようとする。それが現実である。管理職は圧迫感を覚える。それが現実である。働き手はより多くを望む。それが現実である。これを否認するところから、憤りが生まれる。
データが語ること(そして語らないこと)
ギャラップによる長年の調査は、従業員のエンゲージメント低下が、企業に毎年数千億ドル規模の損失をもたらしていることを示している。『ハーバード・ビジネス・レビュー』(有料記事)などで公表された研究は、燃え尽きが個人ではなく職場の問題であることを継続的に指摘している。マッキンゼーが離職について行った研究は、多くの人が仕事そのものではなく、管理職やシステムから離れていくことを明らかにしている。
これらの知見は重要である。だが、データだけでは緊張は解消しない。解決するのは知恵である。
私が思うに、古代の賢人たちは、システムが破綻するのは人々の徳が足りないからではなく、インセンティブが習慣を形づくり、悪いインセンティブが悪い結果を生むからだと理解していた。
厳しくも解放的な前進の道
物事が明晰に見えていないとき、私は「高度」が必要だと学んだ。距離は視点を生む。視点はパターンを明らかにする。そしてパターンが真実を暴く。ほとんどの場合、問題は人ではない。状況である。
高度を得ることで、自分の制約だけでなく他者の制約も認められるようになる。オーナー、経営陣、管理職、働き手は、しばしば不合理なシステムに対して合理的に反応している。
現実との調和は、冷静なリーダーシップから始まる。賢明なオーナーは、短期の利益が長期のコストを伴うことが多いと受け入れ、どちらのコストを支払う覚悟があるのかを意識的に決断しなければならない。経営陣は、圧力を否認へと翻訳するのをやめ、明確さへと翻訳し始めるべきだ。説明責任と共感の双方で導くのである。管理職は、上に対して提言するだけでなく、下を育てることにも責任を負うべきだ。心地よさではなく能力を築くこと。働き手は、レバレッジは要求するものではなく獲得するものだと理解しなければならない。機会は価値創造に続くのであって、その逆ではない。
これは甘い話ではない。残酷でもない。単に正直なのである。
最後に
私は今も、あの古い言葉を自分に言い聞かせている。声に出すこともあれば、心の中で繰り返すこともある。とりわけ、物事が不公平に感じられるとき、制約が強いとき、あるいは決着がつかないときに。
幸福とは、現実と調和することである。諦めではない。現状追認でもない。賛同でもない。明晰さである。
そして明晰さから、より良い意思決定、より良いリーダーシップが生まれ、皮肉なことに関係者全員にとってより良い結果へとつながる。
これは楽観主義ではない。経験だ。



