ドラマは、中島家の家族が当主である60歳の父・喜一の、準禁治産者(心神耗弱者として自分の財産を管理・処分することが禁じられる)認定を求め、家庭裁判所に申し立てる場面から始まる。申立て内容の概略は、「喜一は原子爆弾、水素爆弾及び同放射能に対する極端なる被害妄想に陥り、地球上で安全なところは南米しかないとブラジル行きを独断で決め、全財産を投入しようとしているため、近親者の生活が破壊される」というもの。家族だけでなく、喜一が生活の面倒を見ている妾やその子らも、喜一の財産がどうなるのか気掛かりで集まっている。
一番若い妾の家で、米軍基地から飛来する訓練機の爆音に喜一がパニックになる場面がある。空襲体験がトラウマとなり、それが原水爆のショックと結びつき、飛行機の爆音にも単なる不快以上の尋常ならぬ恐怖を覚えるようになった喜一。だが家族はそこまでの心情を共有できないし、まして自分たちの生活基盤である工場を手放しブラジルで一から農業をやる気など、毛頭ない。
双方の言い分の間で喜一の主張に思わず感じ入ってしまうのが、家裁の調停委員・原田(志村喬)である。彼は家で息子に、原爆や水爆は怖くないか? 怖いならなぜそう落ち着いてられるんだ? と問い、息子は「そりゃ、だからってどうしようもないじゃないですか」と答える。これは当時の多くの日本人の感覚だっただろう。
もっとも激しく喜一と対立しながら説得を試みる次男(千秋実)は、二度目の調停の場でとうとう「人間、誰だって死ぬんじゃありませんか」と開き直る。そこで喜一が決然と言い放つ「死ぬのは止むを得ん。だが殺されるのは嫌だ!」という台詞に、一同シーンとなってしまうところが、前半のクライマックスである。
喜一の「家父長」としての強引さと責任感の強さは、その当時失われつつあったものだろう。一方、家裁の廊下で疲れ切って重い沈黙に包まれている家族のめいめいに、買ってきたジュースを渡す姿には、他の誰も見せない優しさも窺われる。自分が貰えるはずの財産がどうなるかに血相を変え、互いにギスギスしている息子や娘らと比較すると、遥かに懐の深い人物に見えてくる。
戦後、必死に働いて家族のために豊かで平安な生活を築き上げることを第一目標とする、それがこの時代の日本人の平均的な像だとすれば、彼の中では軸はブレていない。守るべきものがあり実現したい未来像があるが故に、それを脅かす放射能への恐怖が強迫観念として固着してしまったのが、喜一の”病”だ。
ついに家裁で準禁治産者に認定されてしまった喜一が最終手段として工場に放火した後、従業員に俺たちはどうなってもいいのかと問われ、「みんなが助からないかん。儂と一緒に行ってくれ」と懇願する場面で、彼の精神が崩壊しかかっていることが示される。「みんなが助からないかん」は人命尊重の観点から正しい。そして「みんな」の範囲を全人類に拡大していけば、核兵器禁止条約にすべての国が批准するしかないのだが、米・ロ・中の情勢は未だ不透明だ。


