この50年で劇的に拡大した航空市場。高度経済成長の頂点ともなった1970年、大阪万博(EXPO'70)が開催されたこの年に、国内の航空会社を使った旅客者数は約1700万人であった。それが大阪で万博(大阪・関西万博)が再び開かれた2025年には、1億3000万人超と約8倍に増加した。
そこで国内各地で必要となったのが「空港」だ。1970年に国で空港整備特別会計がつくられると、全国で空港建設が本格化。広いエリアから旅客を集める空港は国が、狭い地域の需要を支える空港は地方自治体が整備してきた。
そんななかで、2006年に産声を上げたのが「神戸空港」だ。神戸港の沖合につくられたので、仮に24時間使われても騒音が問題になりにくい。しかし20年近くの間、航空機の発着回数と運用時間は限られ、国際定期便が飛ぶこともなかった。
ところが、2025年4月から、韓国や台湾などへの国際チャーター便が毎日就航し始め、発着制限も大きく緩和された。大きな転換期を迎えたといってよい。そこで、航空市場の変化に揉まれながらも、いま新しいステージに立とうとする「神戸空港」の現在地に焦点を絞ってみた。
空港反対は「一世一代の不覚」
時計を1960年代まで巻き戻す。航空機がプロペラ機からジェット機に変貌しつつある時代だ。ジェット機から出る騒音や大気汚染が世界各地で問題視されるなかで、住宅地に囲まれた大阪国際空港(伊丹空港)の近隣に暮らす住民たちや自治体は、環境・騒音問題に悩まされた末に、同空港の移転・廃港を国に求めた。
一方で前述した1970年、閣議決定を経てつくられた運輸白書には「大規模な国際空港を関西に建設する必要がある」との記載がある。経済発展が目覚ましかった関西エリアに、やがて到来する空の時代を考慮したものだ。
伊丹空港の廃止を前提に、新たな国際空港の候補地として選ばれたのは、1.神戸港沖、2.泉州沖、3.播磨灘の3カ所だった。当時の運輸省は大阪の中心部から最もアクセスが良い神戸港沖を有力と見ていた。ところが、当時の神戸市は住民たちの意見を踏まえ空港建設に異を唱える。
まず騒音公害や環境汚染を危惧した神戸市の議会が、1972年に空港建設反対を決議。さらに翌1973年に行われた市長選挙でも大きな争点となる。保守系であった現職の宮崎辰雄市長が、空港反対の立場に転換し、社会党や共産党などから推薦を受けた。
衆議院議員を辞職して出馬した空港を推進する自民党が推す候補者との事実上の一騎打ちとなったが、宮崎が僅差で勝利する。
こうなったのは、戦後の経済成長の歪みである公害など住環境の悪化が顕在化したのが1970年代前半で、社会党や共産党が推す革新系の知事や市長が、東京都や横浜市、大阪府などで続々と誕生し、特に大都市圏では環境保護と開発抑制を求める風が吹き荒れていたという背景があった。
ただ、宮崎はこのときの空港反対の判断を「一世一代の不覚」だったと後に悔やんだという。
1974年、運輸省は新空港の建設地に泉州沖を選択。それが1994年の「関西国際空港」の誕生へとつながった。なお、廃止される予定だった伊丹空港は、現在も供用されている。



