山下家も曾祖父にあたる山下與一郎が34年に「ヤマヨテクスタイル」を起業して参入。戦後、再び活気を取り戻したニット産業は55年代半ばに最盛期を迎え、現在は50社ほどだが、当時は約300社あった。山下の幼少期の記憶にも、生機の集積所に列をなすトラックの光景が残る。ところが90年代以降、主に中国から大量生産された安価な生地が日本にも多く輸入され、国内生産の生地の需要も下がりはじめていく。そんな最中、総合商社丸紅の繊維部門にいた山下が2003年、駐在先の香港から家業を継ぐため戻ってきた。すでに、ニット産業を支える企業は減っており、少なくなった国内市場で何とか産地を支えていた。しかし山下は和歌山ニットの高いクオリティとそれを支える職人技に驚かされ、希望を抱いていた。「和歌山のニットなら海外で十分戦えると思った」という。
国内市場に依存すべきではないと思った山下は、これまでの海外経験を生かすべく、海外市場に活路を求め、新たな生地を生み出すファブリックディレクターの尾崎孝夫とともに、パリのプルミエール・ヴィジョンに乗り込む。反応は上々だが、世界的なラグジュアリーブランドを含め、多くのサンプル依頼はあるものの大きなビジネスにつながることはなかった。「すごい素材であっても、安定的にものを供給できる体制があるのか、どんな歴史をもっているのかなどの信用がなければ、新規でいきなり発注されることなどないわけです」
まずは信用をつくるために、依頼されたサンプルを納期までに送ることがミッションとなったが、最初から躓いた。生地がなかなか上がってこないのだ。日本であれば、電話で「すみません、一週間遅れで何とか」という相談も通用するのだが、欧米の商習慣では遅れはチャンスを失うことを意味する。
納期遅れの原因は、日本の繊維産業の特徴でもある分業体制だった。A-GIRL’Sは企画やデザインが中心であり、生地にするためには編むニッターと呼ばれる会社や糸商社、生地を染める染工場など周囲の協力が不可欠だ。しかし、各々の企業からすれば優先順位が違う。ラグジュアリーブランドとはいえ、目の前にある国内メーカーの安定的で確実な仕事が優先される。世界のスタンダードを知らずに展示会に出たため、納期を守れず評判を落とす日本企業は多かった。加えて、当時は繊維業界においてジャパンクオリティを謳えるほどの名声が日本にあったわけでもなく、アジアの国のひとつという扱い。逆風は、社外だけでなく社内からも吹いた。市場開拓のため頻繁に海外出張し、展示会の出展にも高額な参加費がかかる。さらには尾崎が年間300点もの素材をつくり、そのどれもが高付加価値な素材で作業効率が悪かった。一向に利益を生まない山下に現場の目は厳しく、離職者も少なくなかった。


