彼らの活動の痕跡を、ある意味状況証拠的にしか辿ることかできないのは、彼らの芸術が従来の芸術表現のようにキャンバスに絵を描いたり、ブロンズで彫刻を制作したりするものではなく、モノとして残るものではなかったからだ。
諏訪に集った青年たちは、これまでとは異なる新たな表現方法を模索し──例えば、ことば、パフォーマンス、舞踏や音楽を用いて──実践しようとしていた。
戦後の日本は高度成長の波に乗る一方で、大量生産大量消費に代表されるような物質文化へと次第に傾倒しつつあった。彼らがそういった状況に、共通して違和感や反発を感じていたのは自明のことだった。1960年代は若者を中心に学生運動や政治運動が盛り上がりを見せ、既存の価値観に対する不信感が大きなうねりとなっていた時期でもある。
「山式・雪の会座」(1972)など当時の集団活動に参加し、後に装丁家となり活躍する芦澤泰偉氏はこう語っている。
「やっぱり反文明というか、高度成長期に向かっていくというよりも、そういうミステリアスなものとか多神多仏、日本の八百万の神とかね、そういったものに非常に興味をもったというか、自分の人生がそういう方向だった。やはり松岡正剛が言っているように、日本文化には背骨がない。しかし、黒船が来ても全てを受け入れない。戦後も、今だって英語をしゃべれないわけね。そういう日本って何だろうっていうのがこれから問われていくと思います」(『かみ派の美術 諏訪につどった前衛たち1969-1974』水声社 p.121より抜粋)
今回の展覧会のキュレーターをつとめる木内真由美氏はこう述べる。
「アートというのは生きることそのものでもあると思うんです。そういった意味で、諏訪に集った彼らは、アートを通して互いに刺激を与え合いながら、生き方そのものを模索していたようにも思えます」
「かみ派」の精神的な支柱であったのは、日本の観念芸術(≒コンセプチュアル・アート)の始祖として知られる松澤宥(1922 – 2006)だ。
松澤は、1964年に夢のなかで「オブジェを消せ」という啓示を受けて以降、それまでの絵画やオブジェ制作などの伝統的な表現手段を捨て、ことばのみによる表現活動=観念芸術を展開していった。


