物理学的限界におけるヒトの視覚
一般に、何かが「ぼんやりと」見えるためには、十分な数の光子が網膜に当たり、検出可能なシグナルを生み出す必要があると考えられている。古典的な心理物理学研究では、「暗順応(dark adaptation:明るいレベルから暗いレベルへの変化に合わせて感度を上げること)」状態にあるヒトは、約5~14個の光子からなる点滅光を検出できることが確認されている。
先述した2016年の研究は、たった一つの光子であっても、感覚検出の天秤を傾けるには十分であることを証明した、史上初の研究となった。さらにこの研究は、単一光子を検出する確率が一定ではないことも示した。
実験において、光子が眼に当たった後、正答確率は数秒のあいだ、上昇していた。この現象は、視覚系における、一種の一時的な感覚ゲイン(増幅率)の向上と解釈することができる。こうしたプライミング効果(先行する刺激の処理が、後の刺激の処理を促進または抑制する効果)は、どれほど微妙な生理的メカニズムであっても、物理学的限界において、知覚を調整する効果を持ち得ることを示唆している。
ただし、重要な補足がある。2016年の研究で、ヒトが単一光子を検出できることが示唆されたものの、2024年に『Nature Communications』に掲載された研究は、結果に重要なニュアンスを添えている。
2024年の研究は、網膜の神経節細胞(眼からのアウトプットを担う神経細胞)のシグナルが、極めて微弱な光の下でどのような挙動を示すかを検証した。その結果、網膜における非線形的なシグナル処理の存在が明らかになった。つまり、極めて微弱な光の下では、単一光子に由来するシグナルを脳に伝達する反応が、積極的に抑制されていたのだ。
網膜にある、神経細胞の連鎖反応を引き起こす回路は、ノイズや、「単一光子への反応」の多くを捨てるフィルターの役割を果たしているようだ。これにより、光の強度の違いを、より安定して区別することが可能になる。
言い換えれば、桿体細胞と網膜は、1つの光子に反応できるだけの感受性をもつが、神経シグナルの処理においては、それなりの多さの光子がないと知覚のしきい値を超えない可能性がある、ということだ。
こうした解釈は、視覚の進化に関する概念と一致している。つまり、視覚は感受性だけの問題ではなく、ノイズに満ちた生物のシステムのなかでの信頼性が重要であり、その方向で進化してきたという考え方だ。


