参加国やパビリオンは共通の問いを持ちながらも、異なる文脈で回答を提示する。その差異は統合されることなく、並列に存在し続ける。万博は単一の物語を語る場ではなく、無数の物語が同時に立ち上がる場として設計された。
中心なき共鳴はどこで生まれるか
このSAC的性格が象徴的に現れたのが、公式ロゴ、そしてキャラクター「ミャクミャク」をめぐる現象だろう。発表当初、その異形さは賛否を呼んだ。しかし、人々が勝手に意味づけし、二次創作やミームとして拡散していくこと自体は、一定程度織り込まれつつも、偶発性も同時にはらんでいた。誰かが具体的に指示したわけではない。しかし、意味の逸脱や再解釈が連鎖することを止めない、という状況である。こうしたさまざまな取り組みの自律的連鎖が、集合的熱狂へと転じたのである。
重要なのは、これが単なる偶然の産物ではなく、「偶発性が立ち上がる構造そのものを設計した結果」だったという点だ。何が起きるかは決めなかった。しかし、起きうる反応の幅と方向性は、意図的に設定されていた。曖昧で多義的な言葉──「いのちの輝き」──というテーマを、大阪の地に宿る「太陽の塔」への憧憬とつなぐ時間軸。空間を緩やかにつなぎつつも統一感をあえて放棄した会場構成。中心を問いを開く空間として空白にし、未来を単一の軸だけで示さない多元的なテーマウィーク。これらが重なり合うことで、万博はSACとして機能した。
この現象は、連載でこれから描いていく「辺境」という概念とも深く重なっている。SACは、中心が不在であるがゆえに成立する。強い権力や経済合理性の渦中から一歩距離を取った場所だからこそ、個々の試みが自律的に動き出し、共鳴が生まれる。万博会場は、巨大でありながら、その本質において「中心なき辺境」の集合体だった。
だからこそ、2025年万博は単一の未来像ではなく、For the Futures──複数形の未来という結論に至った。全員が同じ未来を目指すのではなく、それぞれが異なる未来を抱えたまま、同じ場に居合わせ、響き合う。その状態こそが、これからの社会における共創の原型なのではないか。
Resonant Regionsとは、特定の場所の名前ではない。中心を持たない試み同士が、直接つながり、共鳴し合うネットワークそのものだ。スタンドアローン・コンプレックスとしての万博は、その極端で、しかし様々な示唆を残した事例だった。未来は、設計図を配布して実現するものではない。自走が起きる構造を設計し、その先を手放したとき、個立した行為が思いがけない形で重なり合い、未来は編み直されていく。半年間の熱狂と混沌の中、この万博は、そうした未来への共鳴の可能性を確かに示していた。


