もう一つは、プラダ財団が2015年にオープンした、ミラノのフォンダツィオーネ・プラダです。1910年代の蒸留所をレム・コールハース率いる建築設計事務所OMAが改装したことや、施設内のカフェを映画監督のウェス・アンダーソンがデザインしたことで話題となりました。
施設ができて間もない年の年末に訪問したのですが、私にとってはこれが初めての「高級ブランド財団によるミュージアム体験」でした。直線的に奥へ奥へと進んでいく空間構成と、リサーチをベースにした軸の強いテーマ設定は、当時の私にはかなり新鮮で、アートとブランドの関係における新しい何かの始まりを感じたことを強く覚えています。
なぜこの2つのスペースに先述したような「不安」を感じないのか。そのヒントは安西さんが指摘されたコンテンポラリーアートの「揺らぎ」にありそうです。
私の周りには、「美術史の教養がいらないからコンテンポラリーアートが好き」と言ってしまいがちな人たちと同じくらい、「理解ができないのでコンテンポラリーアートは難しい」と思っている人たちがいます。彼らに聞くと、昔の作品は勉強すれば親しみやすく、共感できる美しさがあるけれど、コンテンポラリーアートは拠り所がなくわからないと言います。
そういう人に呼応するように、いま書店には、「現代アートはこう見る!」とうたっている本が並びます。しかし、コンテンポラリーアートを難しく感じるのは、「最適解」がないことだけではなく、それが「同時代的」だからではないかと思うのです。
コンテンポラリーアートの作家は、鑑賞者のわたしたちとまさに同じ「今」という時代を生きています。
例えば、20世紀後半を代表する米国出身のアーティスト、ソル・ルウィットが「アイデア自体が芸術作品の最も重要な要素である」と主張し、その後コンセプチュアルアートの理論的基盤ともなったエッセイ「コンセプチュアル・アートについてのパラグラフ」を発表したのは1967年。
わたしの両親は5歳で祖父母は30代だったことを考えると、ルウィットがこれを発表した時代の生活の温度や感覚を具体的に想像できる程度の時間差です。また、前時代の作家に比べれば、彼が言い残したこと、やったこと、考えたことが詳細に記録に残っており、より人間「ルウィット」を実感する要素に溢れています。


