近年、企業経営における新たな潮流として「健康経営」への注目が急速に高まっています。経済産業省による「健康経営優良法人」の認定制度が広く認知されるようになり、上場企業のみならず、中小企業においてもホワイト企業としてのブランディングや人材確保の観点から、この認定取得を目指す動きが活発化しています。

従業員の健康保持・増進の取り組みが、将来的に収益性等を高める投資であるとの考え方は、ESG投資の流れとも合致し、企業価値向上のための必須条件となりつつあります。
しかし、この「ブーム」の裏側で、本来の目的を見失った「形だけの健康経営」に陥っているケースが散見されるようになりました。本稿では、格付けや認定取得自体が自己目的化してしまった際に企業が陥りやすい「健康経営のピットフォール(落とし穴)」を明らかにし、真にあるべき姿を考察します。
手段の目的化:調査票を埋めるための「健康経営」
健康経営銘柄や健康経営優良法人の認定を取得するためには、詳細な調査票への回答が求められます。この調査票は、経営理念・方針から組織体制、制度・施策の実行、評価・改善に至るまで多岐にわたる項目で構成されており、企業の取り組みを可視化する優れたツールであることは間違いありません。

しかし、問題なのは「認定を取得すること」が至上命題となり、調査票の回答項目を埋めることだけにリソースが割かれてしまう現象です。「この項目にチェックを入れるためには、形式上どのような規定・プログラムを作ればよいか」「エビデンスとして何を残せばよいか」という議論が先行し、本来の対象であるはずの「社員」が置き去りにされているケースが増えています。
例えば、調査票の得点を稼ぐためだけに健康セミナーを開催したり、利用率の低い健康アプリを導入したりする事例があります。人事担当者は調査票の回答作成に追われ、経営層は認定ロゴマークの取得に満足する。その一方で、現場の社員は「また会社が何か新しいことを始めたらしいが、自分たちには関係ない」「忙しいのにアンケートばかり答えさせられる」と冷ややかです。
特に、30代から50代のミドル層は、働き盛りとして業務の中核を担いながら、家庭でも子育てや親の介護といった責任を抱える「サンドイッチ世代」です。彼らが本当に必要としているのは、勤務時間の柔軟化や有給休暇の取りやすい職場風土、あるいは業務負荷の適正化といった実質的な支援です。しかし、形式的な健康施策では、こうした切実なニーズに応えることができません。結果として、健康経営どころか、会社へのエンゲージメントを低下させる要因にすらなりかねないのです。
社員への還元なき施策の空虚さ
「健康経営のピットフォール」の最たる症状は、施策が社員への実質的な利益還元につながっていないことです。格付け取得のために整備された制度や施策が、現場の運用に乗っておらず、形骸化している状態を指します。
典型的な例として、メンタルヘルス対策が挙げられます。ストレスチェックの実施率100%を目指して事務局が奔走し、高ストレス者への面談推奨通知を機械的に送付する。ここまでで調査票上の要件は満たされるかもしれません。しかし、実際に高ストレス者が安心して相談できる風土が醸成されていなかったり、職場環境の改善という根本的な問題解決に着手されていなかったりすれば、社員にとっては何の恩恵もありません。
また、喫煙率の低下や運動習慣の定着といった数値目標ばかりが独り歩きし、現場の負担となることも懸念されています。日々の業務に追われる30代・50代の社員にとって、「毎日1万歩歩きましょう」「野菜を350g摂りましょう」といった標語的な呼びかけは、現実的な支援とは言えません。長時間労働や過重な業務負荷という根本的な問題に手をつけないまま、個人の生活習慣改善だけを求める姿勢には、違和感を覚える社員も多いでしょう。経営側が「健康経営をやっている」という気分に浸る一方で、社員はやらされ感だけが募っていく。これでは、社員の心身の健康を増進するはずの取り組みが、逆説的に健康に無関心な風土を生み出してしまいかねません。
本来の「健康経営」へ立ち返るために
では、このピットフォールから脱却し、実りある健康経営を実現するためには何が必要でしょうか。それは、外部評価のための施策から、内部(社員)のための施策へと、視点の重心を戻すことです。
第一に、「社員間の対話」の重視です。調査票の項目を埋める前に、自社の社員が何に困り、何を求めているのかを深くヒアリングすることから始めるべきです。画一的な施策ではなく、部署や職種、年齢層によって異なる健康課題に寄り添う姿勢が求められます。例えば、デスクワーク中心の部署には腰痛対策や眼精疲労ケアを、対人業務が多い部署にはストレスへの対策を手厚くするなど、現場のニーズに即した「顔の見える施策」が必要です。特に30代・40代の社員に対しては、キャリア形成の不安やワークライフバランスの悩みに寄り添う個別相談窓口の設置や、時短勤務・リモートワークの選択肢拡充など、ライフステージに応じた柔軟な働き方支援が実効性を持ちます。
第二に、「健康投資」の定義の再確認です。冒頭で既述のとおり、健康経営とは、従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践することです。その本質は、社員が心身ともに健康で、いきいきと働ける環境を整えることで、生産性の向上や創造性の発揮につなげ、結果として企業価値を高めることにあります。認定ロゴマークはあくまでその「結果」として付いてくる副産物に過ぎません。社員が「会社は自分たちのことを大切にしてくれている」と実感できる施策こそが、最大の投資効果を生むのです。
結論:格付けはスタートラインに過ぎない
健康経営優良法人などの認定制度は、企業の取り組みを加速させるための有効なマイルストーンです。しかし、それがゴールになってしまっては本末転倒です。格付け取得は、あくまで自社の健康課題を客観的に見つめ直す「きっかけ」や「スタートライン」と捉えるべきでしょう。
健康経営の本質とは、外部の評価機関に向けてアピールするものではなく、目の前の社員一人ひとりの表情を明るくするために汗をかくことです。「調査票の点数は高いが、社員の健康感が決して高くない会社」になるのか、それとも「派手な認定はなくとも、社員が誇りを持って元気にイキイキ働ける会社」を目指すのか。働き盛りの30代・40代が「この会社でなら、長く健康に働き続けられる」と実感できる環境こそが、真の健康経営の証です。
今一度、何のために健康経営に取り組むのかという原点に立ち返り、調査票の向こう側にいる「ひとりの人間としての社員」へと視線を戻す時期に来ているのではないでしょうか。社員への関心なき健康経営は、浅くて永続きすることはないのです。

鈴木英孝(すずき・ひでたか)◎1993年産業医科大学卒業。米国総合エネルギー企業エクソンモービル社日本法人、アマゾンジャパン合同会社の産業医としてグローバルな産業保健活動を経て独立、現在アッシュコンサルティングサービス代表社員。専門は職域の感染症管理、健康経営、化学物質管理、喫煙対策などを含む「産業保健」。新型コロナ ウイルス対策を始めとした感染症対策、労働衛生マネジメントシステムの国内導入を進め、さらに学会活動を通じて欧米型の産業保健活動を広く国内に紹介する。



