人間が、自分以外の人の恐怖の感情を「嗅ぎ分けられる」という説は、科学の世界では比較的マイナーながらも根強く残ってきた。とはいえ、これは数値で測定可能なものというよりは、経験則的なものにとどまっていた。しかし近年、神経科学や心理学の専門家によって、世界中の実験室でこの説を裏付けるエビデンスが続々と発見されている。
一見したところこの説は、荒唐無稽なフィクションにいかにもありそうな設定に思えるかもしれない。だが、ある人が恐怖の感情を抱いた結果として化学物質によるシグナルが発せられ、これを他の人の脳が検知して反応することが、科学的研究で示唆されている。しかも、誰一人この臭いを意識上で気づいていなくても、こうした現象が起きるという。
ひそかな「感情のシグナル」としての人間の体臭
我々人間の脳はしばしば特定の臭いを、特別な意味を持つものとして解釈する。一部の臭いに、不可解なまでに深い心理的影響があるのも、これが理由だ。例としては、子どものころに味わった焼き立てのおやつの香りや、特定の香水をきっかけに、その香りを嗅いだ人が時間をさかのぼり、記憶の中の人や瞬間を思い出すといった現象が挙げられる
しかし、記憶や感情だけではなく、体臭が他の人の感情の状態を伝える機能を果たしていることを示唆する、実験に基づいた研究が続々と発表されている。
これは、「ケモシグナル(chemosignal)」と呼ばれる、人間の感情を伝える化学物質だ。これは、汗に含まれるごくわずかな化学物質が媒体となって、その人の感情の状態に関する情報を伝えるというものだ。
2020年に『Philosophical Transactions of the Royal Society B』に掲載された基礎的な研究論文は、恐怖の感情が実際に汗の化学組成を変えることがあり、しかもその変化は測定可能であることを明らかにしている。
この研究では、実験の参加者に、怖い映画の映像などの恐怖感を引き起こす刺激を与えた上で、その人がかいた汗を採取した。すると、低・中・高のどのレベルにおいても、恐怖感の強さが、脇の下に分泌された汗に含まれた揮発性分子のレベルと一貫して相関していることがわかった。
興味深いことに、この研究で用いられた統計モデルは、こうした「恐怖感の強さに関するカテゴリー分け」を、偶然のレベルを有意に上回るかたちで分類した。言い換えれば研究チームは、恐怖感が人間の汗に化学物質という痕跡を残すことを示す、直接的なエビデンスを得たということになる。



