鏡に映った自分の顔を見ると、すぐさま「おとがい(chin:あご先)」が目に入るだろう。これは、下あごの先端にある、骨が張り出した小さな部位だ。
一見したところ、ありふれていて、そこにあることすら気づかないかもしれない。だが実はこれは、人類の進化の歴史を振り返っても、人体の解剖学的構造に関する最も大きな謎の一つなのだ。
現生人類(ホモ・サピエンス)は、現存する霊長類の中で唯一、おとがいを持つ種だ。われわれ人類の先祖たち(ネアンデルタール人やデニソワ人などのすでに絶滅した人類)の顔には、この部分の構造がまったく存在しない。
しかも、われわれ現生人類だけがなぜ、進化の中でこの形質を持つようになったかについては、100年以上にわたって学術界で議論が交わされてきたにもかかわらず、結論が出ていない。人類学者の間でも意見が分かれているのだ。
おとがいには機能的な役割がある、とする仮説もある。一方で、顔面構造の変化によって生じた副産物だとする見解もある。以下では、この謎に関する主要な科学研究について解説するとともに、おとがいの起源をめぐる議論がいまだに続いている理由についても説明しよう。
ヒトのおとがい、3つの仮説
ヒト以外の現存する霊長類では、下顎に明確な張り出し部分はなく、むしろ通常は引っ込んだ形状になっている。しかしホモ・サピエンスでは、下顎骨に明確にわかる骨の出っ張りがある。これが「おとがい」だ。
化石記録の分析から、この特徴は約20万年前に、現生人類と同じ解剖学的特徴を持つ個体に、比較的突然と言える期間で出現したことがわかっている。特筆すべき点として、われわれと最も近縁の絶滅した人類には、この特徴はまったく存在しない。
現生人類にのみ存在することから、古人類学においておとがいは、人類の骨を現生人類のものと特定する上で非常に有用な指標となっている。だが、どんな選択圧がこの特徴的な形態を生み出したのか、そのメカニズムはほとんど明らかになっていない。現時点で、生物人類学では3つの有力な説が存在する。
仮説1:噛む力に対して、あごを強化するために生まれた
研究が始まって間もない時期に提唱された説では、おとがいは、物理的な力に対する機能的な反応として進化したとされるのが常だった。つまり、噛む時にかかる力を下顎全体に、よりまんべんなく分散させるために、おとがい部分の骨を強化するように進化したということだ。



