この仮説を支える理論は、直感的には正しいように思える。何千年もの間に、おそらくは道具の使用や、火を使った調理によって、ヒトの食生活が変化するなかで、咬合力に変化が起きた可能性はある。その結果、張り出たあご先のような、身体構造上の適応が有利に働いたとも考えられる。
しかし、生体力学分野の研究から、この説には疑問が呈されている。2006年に『Journal of Dental Research』に掲載された研究論文では、この説を検証するために、計算モデリングの手法を用いて、骨にかかる応力や歪みをシミュレーションした。
その結果、意外なことに、「おとがいがある」場合も「おとがいがない」場合も、噛む際に下顎にかかる力のパターンは似通っていたと、この論文の著者たちは報告している。言い換えれば、噛む時の力に反応する際に、おとがいは特に大きな貢献をしていないということだ。
同様の有限要素解析でも、下顎結合の形状の変化は、骨にかかる力に影響を与えるものの、「咀嚼への対応のみを要因としておとがいが進化した」と断定できるほどの影響があるとは言えないことが判明している。
実際、ヒトの発達過程の検証により、おとがいの出っ張りが顕著になるのは、咀嚼に関する発達がほとんど終わったのち(思春期の終わりごろ)であることがわかっている。これは、咀嚼がおとがい進化の第一の要因だという説とは相容れないものだ。こうした理由から、多くの研究者はこの説を否定するようになった。
仮説2:おとがいは、性的・社会的シグナルとしての役割を果たしている
もう一つ、以前から提唱されている仮説として、おとがいは性淘汰(性選択)、つまり顔の美的評価やホルモンの分泌量を示すシグナルとして生まれた、というものがある。実際、張り出たおとがいは、発達上の安定性や、男性ホルモンであるテストステロンのレベルを示すシグナルとして働いている可能性がある、と主張する研究者もいる。これは、各個体が配偶者となる相手を選択する際や、生殖の成否に影響を与える可能性がある要素だ。
おとがいの形状に男女で違いがあることについてはある程度のエビデンスがあるものの、これを進化における選択と結びつけるのは、あくまでも推測にすぎない。当然のことだが、われわれの祖先が何を魅力的だと感じていたのかについて、化石に残った記録から直接的に知る手だてはない。そのため、性淘汰を根拠とするあらゆる仮説は、太古にさかのぼっての検証が非常に難しい。それでも人類学の世界では、この仮説はいまだに議論の対象となっている。


