実は中島は起業後にフルブライト奨学金でひとり娘とともに渡米していた。起業、研究、育児。このタイミングで万博プロデューサーを引き受けるのは負担が大きい。普通なら躊躇するところだが、「NY留学が背中を押した」という。
「プログラミングが本当に面白いと思ったのは渡米してからでした。日本では理論からつくるまでが遠いですが、NYだと『来週までに面白いスイッチをつくってきて』とすぐプロトタイプに入っていく。それも、最初は遊びで十分。友達がつくったのは手で顔をたたくと光るスイッチで、私のは水に塩を入れると光るスイッチ。くだらないアイデアですが、それが楽しくて。こうした経験を重ねるうちに、技術が身体の一部になってきた感覚がありました。自分が感じているつくる喜びをみんなにも感じてもらいたい。そう考えているときに万博の話をいただいて、よしやろうと」
クラゲ館の展示は、NY時代と同じく、プロトタイプをつくり五感で体験するやり方で進めていった。苦労したのは技術面より、プロデューサーとしての交渉事だ。安全性やルールを重視する協会とは意見がたびたび食い違った。
「それぞれ立場は違っても、対立構造にならないように意識していました。もちろん言うべきことは言います。ただ、一緒に踊ったりすると急に柔らかい関係になることが多い。まずは友達になりましょうというアプローチで垣根を乗り越えてきました。最終的には立場などを越えて共感し合い、素敵なクラゲ仲間となりました」
「万博最終日の光景」を伝え続ける
期間中の印象的な場面を尋ねると、「本当はすべて」といいつつ、最終日の光景をあげてくれた。日が落ちると、クラゲ館のスタッフやKURAGE Bandのメンバーはいのちパークに面したらせん状のスロープに立ち、即興の演奏で来場者を見送った。すると、いのちパークに人が集まり始めてライブ会場さながらに。感動的なフィナーレだ。
「前日なら『人をいのちパークに滞留させてはダメ』と協会に怒られていたはず。でも最後だから許してもらえたのかなと」
クラゲ館はパリビオンとして成功を収めた。中島も手ごたえを感じているが、一方で悔いも残っている。「マイノリティもマジョリティも、一人ひとりの個性がごちゃまぜになっているから世の中は面白い。そのことを来場者に体験として伝えられたと思います。ただ、社会に実装されるほどのインパクトにはなっていない。万博に来なかった人にも、引き続き伝えていかないと」。
アフター万博に向け、中島はすでに動き出している。今夏にはほかの海外パビリオンの仲間とプチ万博開催を企画中。クラゲ館も広島県福山市への移設が検討されている。中島自身、音楽修業や教育事業のため、今年はアフリカやイタリア、ヨルダンでの活動を増やすという。
シングルマザーでもある中島は女性の理系研究者として注目されることも多い。女性のロールモデルになっている意識はあるのかと尋ねると、笑ってこう答えた。「いろんなロールモデルがいるといいですよね。私についてはこんな生き方もあるというくらいに思ってもらえれば。これからも私は“ごちゃまぜ”です」


