自分の功績が公に認められずとも、幸せに質の高い分業を提供することは可能なのだろうか?
2025年末に栃木市立美術館の企画展「喜多川歌麿と栃木の狂歌」を見た帰り道、頭にあったのはこのひとつの疑問でした。
江戸時代後期に活躍した浮世絵師、喜多川歌麿といえば、昨年11月にサザビーズのオークションで、その肉筆画が高額落札されたことが話題となりました。また、大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』で、歌麿の版元であった蔦屋重三郎の生涯が取り上げられたことも記憶に新しく、多方面でこの辺りへの関心が高まっていることが感じられます。
企画展では、歌麿の作品をメインに、同時代の絵師たちの浮世絵版画と肉筆画を紹介していました。これまであまり浮世絵に触れてこなかったわたしは、まずこの版画の豊かな表現に驚きました。細かな動きや表情の捉え方、髪の毛の流れ、衣服の質感、微妙な色の重なり。版画という媒体でここまで繊細で革新的な表現が可能だったのかと、ただただ感嘆するばかりでした。
同時に強く意識させられたのは、浮世絵が徹底した分業によって成立していたという事実です。
浮世絵は、絵師だけで完結するものではありません。彫師、摺師、そして版元。それぞれの役割が重なり合って、はじめて一枚の作品になります。とりわけ彫師や摺師の仕事は、単なる再現や補助ではなく、作品表現そのものを拡張しているように感じられました。髪の毛を何本にも彫り分ける「八重毛」や、奥行きある透かし摺り。これらは絵師の発案というよりは、技術を持つ側が積極的に創案したことで発展したものだと想像できます。
彼らの質の高いコラボレーションに興奮する一方で、そのような「コラボレーター」たちの個人名がどこにも記載されていないことに疑念を持ちました。スポットライトが絵師や版元に注がれるばかりで彫師や摺師は幸せだったのだろうか。
しかし、じっくり見れば見るほど、その表現がトップダウンの機械的な作業のなかで生まれたものとは到底思えませんでした。絵師、彫師、摺師、版元がフラットに意見を交換し、この分業を面白がっていなくては、これほどタイムレスに興味深い作品は生まれてこないだろうと感じました。



