前澤さんの「分業」や「依存」という言葉を眺めながら、いろいろなことを思い出しました。
自動車会社に勤めていた頃、新人は1カ月間、工場のラインで働かないといけませんでした。社員教育の一環です。担当の部分でミスするとラインはストップします。これは緊張感の洗礼であり、またぼくにとっては「分業」という言葉への嫌悪感のはじまりでした。
その頃、スウェーデンのボルボでは新しい生産方式として、少ない人数で一台の車を一貫生産するシステムを導入しはじめたニュースをみて、もの凄く羨ましかった覚えがあります。
当たり前ですが、事務仕事をするにしても担当が決まっており、東京の本社で海外営業だったぼくは、開発、生産、品質といったところに無用に介入すべきではないことを徹底して教えられました。大企業の鉄則みたいなものです。
そうした環境のなかで、英国のスポーツカーメーカーへエンジンやトランスミッションなどのコンポーネントを供給する仕事に関わりました。彼らが大企業ではなかったこともあり、彼らの新しい小型スポーツカーの開発に実質的に参加するかたちになりました。
二社間でも社内でもいろいろと衝突することは多かったですが、彼らの社内分業体制よりぼくのいた組織の分業体制の方がより細分化されていたことが、その大きな要因のひとつだったと思います。彼らの要求はこちらでは複数部署でないと対応できず、一対一では引き受けづらかった。しかし彼らは当方の事情を知らないがごとくに振る舞います。
こうした経験もあり、分業が確立された大量生産よりも新しいコンセプトを生むことに魅力を感じたぼくは、ヨーロッパを生きる場として相応しいと思い、イタリアに移り住むわけです。
そしてトリノの会社で最初に関与したのがスーパーカーの生産です。カロッツェリアと称される車体工房における少量の限定生産の生産管理や品質管理をしたのですが、当初、生産管理はまだしも、車の品質管理は担当外だと思いました。それをボスに上申すると「君の目で見ればいいのだよ」と。
その時です。あれほど分業を嫌悪していたにも関わらず、ぼく自身が分業の頭になっていたことを痛感させられたのです。
ぼくは高校生の頃から全体観を掴むことに多大な関心があり、そのために大学では文学の概念が広いフランス文学科を選び、卒業後は産業の裾野が広く経済活動の全体を見やすい自動車業界に身を投じました。しかし、自分自身の行動パターンは極めて「分業的思考」であったのです。
その頃、ボスが経営していたトスカーナの農園によく出かけていました。そこで野菜加工品を詰めた瓶のラベル張りや荷造りを手伝うこともあります。面白いことに日本人の多いチームはその作業を分担して効率を増すことに注力し、イタリア人の多いチームは逆に一人で全工程をやろうとするのです。それも雑談しながら。そうした場面で、ぼくは日本を離れて良かったと思ったものです。


