自己責任という名の十字架
とはいえ、自己啓発本を批判する人たちの思いも ある程度は理解できる。何しろ自己啓発本は、自助努力を通じて立身出世(=成功)することを指南する本。だから成功がかなわなかった人には失敗者の烙印が押され、しかもその原因は当人の努力不足なのだから、自己責任であるとみなされる。「自助努力」なる錦の御旗は、ともすれば「自己責任」という十字架にすり替えられるのだ。成功の甘言を弄し、ビジネスパーソンを社畜にしておいて、失敗すれば「自己責任」のレッテルを貼るのが自己啓発本であるならば、これを嫌う人が多いのも当然。本稿冒頭に記した「ビジネスパーソン働き過ぎ問題」に関し、自己啓発本に非難が集中する理由がこれだ。
確かに、一理ある。特に自己啓発本が資本主義的自由競争社会とセットで語られるときには注意しておかなければならない点であり、事実、この両者がセットで語られることは多いのだ。だが、果たして「自己責任」とは、それほど悪いことなのだろうか?
「自分本位に生きる」
ここでもう一度自己啓発本の原点に戻り、ベンジャミン・フランクリンの『自伝』について考えてみよう。
フランクリンが生きた時代のアメリカは、まだだ宗教的な束縛が厳しかった。ピューリタニズムのなかでもとりわけ厳格なカルヴァン主義が信奉され、個々の人間の運命は神によってあらかじめ定められていると考えられていたので、人間サイドに好きなように生きる選択肢はなかった。貧しい家に生まれたのであれば、それは神がその人のために定めた運命なのだから、それを変えようと努力することは神への反逆に他ならない。
しかし、フランクリンは、神の定めた運命通りに生きることを拒否した。生まれが貧しいからといって、一生涯貧しいままでいるなどということは、彼には到底承服できなかった。どうすればこの状況を抜け出せるか、どうすれば人の役に立ち、人から愛されて立身出世ができるかを考え、戦略を練り、努力を積み重ねた。その結果、彼の場合はたまたま成功裏に終わったが、仮に失敗したとしても後悔はなかっただろう。彼は自分本位に生きたのだから。成功も失敗も共に自己責任、上等である。
この大胆不敵な大見得、この爽快無双な生き方こそが、快男児フランクリンのフランクリンたるゆえんであり、『自伝』が伝えようとした本来の意味での自己啓発思想の大本なのだ。
世紀の大出世を遂げたフランクリンの『自伝』がスタート地点であったこともあり、自己啓発本に「立身出世を指南する本」というイメージが染み付いていることは否めない。またそうなると、「武士は食わねど高楊枝」という痩せ我慢の美徳を重んじる日本人の目に、この種の本が何やら卑しいものに映ることも理解できる。多くの識者が自己啓発本を軽蔑するのも、その辺りに遠因がありそうだ。
しかしフランクリンの本意は、そもそも「立身出世のすゝめ」ではない。彼が言いたかったのは、自分の人生を他人任せにするなということなのだ。自分の人生の進行方向を自分の意志で決めること、つまりは自分本位で生きていくこと、この権利を放棄してしまったら、それは生殺与奪の権を他人の手に渡すことと同意だぞ、と。


