地球にある深海海溝のいずれかにカメラを沈めていけば、やがて、現実とは思えないほど過酷な領域に到達するだろう。海面から約8200m下の深海は、水温が非常に低いだけでなく、水圧があまりに高く、潜水艦でも耐えられない。魚などとても存在できない場所に思える。
しかし、そこに生息する魚がいる。シンカイクサウオ(学名:Pseudoliparis amblystomopsis)や、その仲間だ。
幽霊のようなゼラチン状の体を持つこの魚は、現在、最も深い場所での生存が確認された脊椎動物として、ギネス世界記録に認定されている。その発見は、生物学における過去10年間で最も驚くべき新事実の1つであり、進化に時間と圧力、そしてほんの少しの創造性が与えられた時、生命がいかに柔軟に適応してみせるかを我々に知らしめている。
8200mの深海で魚が生き延びる方法
シンカイクサウオは、世界記録を打ち立てたような魚には見えない。一見すると、コイを幽霊っぽくしたような姿だ。色の薄い、ぶよぶよとした体は、深海の捕食者と聞いて想像するような、硬い鱗や筋肉質の体とはかけ離れている。しかし、その脆弱さこそがカギだ。進化は彼らを、ほとんどの海洋生物、さらには人間が、「生きるのに適さない」と思うような世界に暮らすのにうってつけの生物に作り上げた。
シンカイクサウオの姿が初めて本格的に目撃されたのは、マリアナ海溝や日本海溝、そして直近では、伊豆・小笠原海溝で実施された探査でのことだ。2022年8月15日、小笠原海溝を探査していた東京海洋大学などの共同研究チームが、水深8336mで泳ぐシンカイクサウオの仲間を撮影することに成功した。その優雅な泳ぎぶりは、800頭の象に乗られているのに等しい水圧を受けているとは到底思えないものだった。
シンカイクサウオの日常は(「日常」という言葉が、日光のない世界に生きる魚にも当てはまるとすればだが)、辛抱強さと精密さで成り立っている。そこには、餌としてついばむ植物もなければ、活気にあふれたサンゴ礁もない。食べ物は、ごく時たま現れるのみだ。深海の海底を漂ったり跳びはねたりする、微小な甲殻類であることが多い。
2016年に学術誌『Deep Sea Research Part I: Oceanographic Research Papers』に掲載された研究によると、深海に生息するクサウオは、主に海底の上をゆっくりと泳ぎながら、暗闇の中で動きを感知し、驚くべき効率の良さで、端脚類(甲殻類の仲間)を捕食している。
深海の高圧下では、音や光の伝わり方も、通常とは異なる。そこには、砕ける波も、泡立つ熱水噴出孔も、水をかき乱す魚群の姿もない。普通の人間には、見るべきものなどほとんどない。冷たい泥、沈降する有機物の粒子、時おり海底をうろつく深海性の無脊椎動物くらいだ。それでもシンカイクサウオは、この環境に完全に適応している。
しかし、真に目を見張るのは、この環境での生存を可能にしている驚異的な生体力学だ。2019年に『Nature Ecology & Evolution』誌に掲載された研究において、水深約7000mで捕獲されたシンカイクサウオ属の一種、マリアナスネイルフィッシュ(学名:Pseudoliparis swirei)のゲノムが解読された。その結果、極限的な高圧環境に対して緻密に適応した一連の仕組みを備えていることが明らかになった。その内容はさながら、超深海帯(水深6000m超の領域)で生きるための、進化における「必需品リスト」のようになっている。以下に説明していこう。



