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2015.10.01 07:30

久能祐子「米国自力成功女性50名」唯一の日本人

久能祐子氏(右)とパートナーの上野隆司(左)。久能氏の現在の純資産額は3億3000万ドル(約407億円)と推定される。

久能祐子氏(右)とパートナーの上野隆司(左)。久能氏の現在の純資産額は3億3000万ドル(約407億円)と推定される。

「フォーブス」アメリカ版が5月に発表した「米国自力成功女性50名」のリストに日本人で唯一名を載せたのが、久能祐子だ。現在「S&R財団」のCEOを務める久能に、日米ふたつのバイオベンチャー起業までのいきさつと、財団設立の真意を聞いた。
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アメリカ・ワシントン州の北西部に位置するジョージタウンは、首都ワシントンD.C.に先立つ1751年に設立された歴史ある街だ。建造から数百年経つ建物もいくつか残っており、国会議員や政府関係者、社会的に影響のある資産家たちが住居を構える高級住宅地である。

2011年、その街である50代の日本人カップルが人々の大きな耳目を集めた。エバーメイと呼ばれる邸宅を2,200万ドル(約17億7,000万円)、ハルシオンハウスと呼ばれる邸宅を1,100万ドル(約8億8,000万円)で立て続けに購入したからである。

購入した日本人カップルとは、アールテック・ウエノ社(東京)とスキャンポ・ファーマシューティカルズ社(メリーランド州ベセスダ)というふたつの製薬会社の共同創業者兼筆頭株主として財産を築きあげた、上野隆司と久能祐子(さちこ)である。当初、ふたりは飼い猫のためだけにジョージタウンに家を買ったと噂された(もちろん事実ではない)。

実際にはそのふたつの豪邸は久能が現在CEOを務めている「S&R財団」に活用するために購入されたのである。
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研究者がビジネスマインドを得たとき

「S&R財団」は芸術・科学・社会起業の分野で「才能ある個人」を支援することを目的として、00年に創設された。これは、久能がそれまでの人生で関わった数人の重要な人物なくしては、なし得なかった大きな事業だろう。

1954年、山口県下松市に生まれた久能は、ふたつ上の姉を追いかけるように京都大学の工学部工業化学科に進んだ。女性は少ない時代で、姉も自分もクラスにたったひとりだった。子供の頃はあまり社交的ではなかったという久能は「人と付き合わないでできる仕事」として研究の道を選んだのだが、そこで自分の人生を変える2人の教授に出会う。研究の楽しさと厳しさ両面を教えてくれた虎谷哲夫と、博士課程2年時にドイツのミュンヘン工科大学への短期留学を勧めた福井三郎だ。

「研究や実験だけではなく、論文にまとめるのが非常に得意であるということを、虎谷先生から指摘されてわかったんです。つまり、プロジェクトを立ち上げてそれを俯瞰し、推進させていくのが自分はわりに得意なんだとわかった。それからドイツでは日本と違って、自分ひとりで考えて決めて実行するのが普通なので、そういう行動規範をしっかり体得できたことが大きかったですね」

福井教授は、ドイツ在住の3人の女性科学者に会える講演旅行までお膳立てしてくれたという。専業主婦で元科学者、既婚の科学者、独身の科学者。3パターンの科学者とそれぞれ会い、目の前で講演したこと、大学の博士課程であるにもかかわらず講演料を得られたことが、プロの研究者へ進む決意を強くした。「振り返ればドイツ留学は私のライフチェンジングな経験でした」

1年強の留学を終えた久能は京都大学に戻り、生化学産業工学の分野で女性では初めて博士号を授与された。その後、三菱化成生命科学研究所での1年を経て、新技術開発事業団(現・科学技術振興機構)で早石(はやいし)生物情報伝達プロジェクトの特別研究員となった。

久能はこのプロジェクトで、未来のビジネスパートナーとなる上野隆司博士と出会う。上野は研究において、「機能性脂肪酸群であるプロストンという物質は中枢神経や細胞修復過程で特殊な役割を持っている」という仮説を立て、久能に相談。その後、事業団のリーダー早石修教授からも「アカデミックな基礎研究よりも患者に役立つ薬を開発したらいい」と勧められ、久能を含む数人の科学者とともに事業団を退社、1989年に株式会社アールテック・ウエノを設立した。いまでいうところのバイオベンチャーだ。

「上野の父が上野製薬という会社の社長をしており、とても研究が好きな人だったので、工場の隅でよければと場所を提供してくれたんです。早石先生も上野の父親もそうなんですが、当時の大人たちには余裕があって、若い人を育成することをよしとしていた。京都という土地柄もあったんでしょうが、物心両面で応援してくれました」

工場の片隅で研究を続けた結果、92年に医薬品の第1号、緑内障及び高眼圧症治療薬であるレスキュラ点眼薬を厚生労働省に申請することができ、94年には世界に先駆けて日本で発売される。しかしここに至るまでの月日はもちろん並大抵ではなかった。

久能はまず医薬品開発の経験者を探しまわった。彼ら研究者だけでは開発までこぎ着けないからだ。紹介を経て、当時三共という製薬会社をリタイアしていた医薬品開発一筋の男性に会うことができた。
「研究だけでなく開発も天才というのがいらっしゃるのですが、その方はまさに開発の天才。私は開発のイロハを教わりました。また開発というのは何種類もの研究とビジネスが組み合わさり、それをプロデュースしていくことが肝心なのですが、私がそれに向いていると指摘してくださったんです」

もうひとつの難問が資金繰りだった。上野製薬の上野隆三社長が当初5,000万円の資金援助をしてくれたのだが、すぐに足りなくなり、開発銀行から20億円を借りた。その後、上野製薬から50億、他からも10億と、計80億円の借金が7年でふくれあがった。ある日、上野社長に呼ばれ「ワシが貸したお金は返してくれるよな」と詰め寄られた。そのときのことを久能は「目の前の霧が晴れていくような気がした」という。「自分でつくった大事なお金を私たちに投資してくださっているわけで、借りたお金は返さなければいけない。そのためにはビジネスで成功するしかない」という覚悟ができたのだ。久能が研究者から経営者へと変わった、ターニングポイントだった。

1801年に18世紀の有名なビジネスマン、サミュエル・デヴィッドソンの邸宅として建てられたエバーメイの書斎。(フォーブスジャパン9月号より)
1801年に18世紀の有名なビジネスマン、サミュエル・デヴィッドソンの邸宅として建てられたエバーメイの書斎。(フォーブスジャパン9月号より)

世界をいまより良きものへ

レスキュラ点眼薬発売後の96年、久能は上野とアメリカ・メリーランド州に渡った。日本では景気が後退しはじめスポンサーが見つからず、加えて次の新薬は 最初から世界標準でつくりたかったからである。上野製薬はレスキュラ点眼薬の販売権だけで充分と、研究開発で生まれたさまざまな特許を返してくれ、またロ イヤリティをふたりに支払ってくれた。

ふたりはそれを元手にふたつめのバイオベンチャーとなるスキャンポ・ファーマシューティカルズ社を起業した。アメリカで企業を運営するにはもっと知識が必要だと感じた久能は、ジョージタウン大学に2年通って、国際ビジネスマネジメントの認定課程を修了。経営者としての器量とセンスを充分に磨き、ビジネス業務を一手に引き受けた。

その甲斐あって06年には、第2の医薬品となる慢性便秘症治療薬「アミティーザ」の販売許可が得られた。新薬開発の成功率が12,000万分の1〜31,000分の1、1回につき平均15年、費用が800億〜1,000億円 かかるという事実からすれば、そんな新薬開発を2回も成功させた久能は、研究者及び経営者としてずば抜けた能力の持ち主だといえるだろう。

12年、久能はスキャンポから退き、つい先頃には上野とふたりで株も少し手放して、完全な株主となった。現在は「S&R財団」のCEOとしてフルタイムで活動している。「アメリカの財団というのはノンプロフィット・オーガナイゼーション(NPO)なんですが、マネジメントとしては株式公開をする会社とまったく同じか、それ以上に厳しいんです。それは、自分たちのお金や投資家からいただいているお金がプレタックス(タックスクレジット=税額控除)だから。つまり、受け取った寄付はアメリカの税金を運用しているのとほぼ同義なので、どういうリターンを返せるかというのが課題ですし、それがいまの私の主な仕事です。いってみれば、 NPOに参加する人は、いまでは慈善家という雰囲気ではなくて、投資家なんですね」

リターンとは売り上げや配当金だけではない。社会的なインパクトをどう与えられたかという「ソーシャル・インパクト」がいまのアメリカでは深く追求されるという。「財団をつくったのは、私には物心両面で応援してくださり、自分では気がつかなかった得意な面を指摘してくださった方々がいて、それを次世代に返したかったからです。その際に大事なのは、イノベーションをどう起こすか、ソーシャル・インパクトをどうつくりあげていくかということ。工学博士でもあり経営者でも あった私の父は『イノベーションは個人からしか生まれない』と常々いっていたのですが、私も才能のある個人を初期段階から応援したいと思っています」

もうひとつの久能の興味が、「クリエイティビティはどこから生まれるのか」ということ。冒頭の2軒の豪邸を購入したのは、それらを改修し、芸術家、科学者、起業家志望の、若くて才能のある人々を住まわせるためだ。題して「シェアリング・タイム・アンド・スペース」。時間と場所を共有するのがいちばんクリエイティビティを発揮できると久能はいう。ちなみにハルシオンハウスは通年でレジデンス・オフィス使用が可能な起業家向けレジデンス付きインキュベーター。エ バーメイは芸術家、科学者を中心に短期滞在者を受け入れており、コンサートや研究会、会議が可能である。

これらの滞在プロジェクトが正式スタートしたのは12年で、それ以前の支援を含め、現在までに起業家志望者約30人、芸術家約50人、科学者約10人が選出された。起業家志望者はそのほとんどが1回目の融資、投資、助成金獲得に成功している。日本人も少なからずいる。芸術家ではヴァイオリニストの庄司紗矢香(さやか)と川久保賜紀(たまき)、オ ペラ歌手の森麻季。科学者では、02年にサポートを始めた澤明(当時は助教)がジョンズ・ホプキンス大学の終身教授(日本人では2人目)となった。危機管 理専門のシンクタンク「グローバル・レジリエンス研究所」を創業した深見真希博士も財団のサポートを受けたひとりだ。財団から巣立った彼らが、社会貢献を果たし、また戻ってきて次世代を育てていくサイクルを見届けるのが久能の目標だという。

昨年は売りに出ていたフィルモア・スクールという小さな芸術大学も購入した。現在改装中で、16年9月より「芸術家はどうやってソーシャル・インパクトをつくれるか」というテーマで才能ある若手を募る予定だ。「芸術は人間が世に生まれいでてから何万年と続いています。それはたぶん芸術が人間に固有なエッセンス、特別かつ異質な才能に結びついているからで はないでしょうか。クリエイティビティこそが人間が人間たる由縁というような。私たちはそのことを科学的に解明したいんです」

芸術は貧困を解決するか、科学は格差を解決するか。そういう課題に対して、机にかじりついて考えるのではなく、まず足を踏み出して実践してみるのがモットー。 「ChangetheWorldBetter」というビジョンを掲げ、久野自身がワクワクしながら始めた財団は、それ自体が大きなソーシャル・インパクトとなって、国内外の多方面に多大な影響を与えているようだ。

 
1787年に初代海軍長官ベンジャミン・ストッダートによって建てられたハルシオンハウス。S&R財団の本部として使用されている。地上階にスタジオ、1階にロビー、2階にサロン、3階に会議室、4階に図書館がある。 写真はハルシオンハウスのサロン。(フォーブスジャパン9月号より)
1787年に初代海軍長官ベンジャミン・ストッダートによって建てられたハルシオンハウス。S&R財団の本部として使用されている。地上階にスタジオ、1階にロビー、2階にサロン、3階に会議室、4階に図書館がある。写真はハルシオンハウスのサロン。(フォーブスジャパン9月号より)

◎久能祐子
1954年、山口県生まれ。京都大学大学院工学研究科博士課程修了。工学博士。1989年にアール テック・ウエノ社、96年にスキャンポ・ファーマシューティカルズ社を上野隆司氏と共同で起業。2000年には若い芸術家、科学者などへの支援を行う S&R財団を設立した。現在の純資産額は3億3000万ドル(約407億円)と推定される。

堀 香織 = 文

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