注目すべきは、リーダーの死から丸一週間、親族たちが全員、遺骸から半径数kmの範囲内にとどまっていたことだ。なかでも1頭は、そのあいだほぼずっと、500m以内にとどまっていた。遺骸がみるみる腐敗し、ジャッカルやハイエナ、ハゲワシ、ライオンなどの腐肉を狙う動物がいるにもかかわらず、ゾウたちは遺骸の近くにとどまり、関心を示しつづけた。
重要な点は、この行動が、無関係な死骸への反応とは異なることだ。親族のゾウたちが示した持続的な行動は、混乱だけでは説明がつかない。とりわけ、リーダーが衰弱していたときや、遺骸の腐敗が進んでいた状態のときはそうだ。ゾウたちが、われわれ人間に劣らぬ強い結びつきを築いているのは明らかであり、その結びつきは、死によって日常の行動手順が乱されるほど強いのだ。
哀悼か? 学習か?
すべての研究者が、「哀悼」という語が適切だという点で一致しているわけではない。こうした行動は、情報を得るという目的にかなう可能性がある、と主張する人もいる。つまり、ある意味では、ゾウが「死というもののプロセス」を理解するのに役立っているのかもしれないというわけだ。
これは合理的な仮説だ。ゾウは寿命の長い動物であり、繁殖率は比較的低い。死のリスクを理解することには、進化上の価値があるかもしれない。遺骸を調べることで、病気や負傷、環境にある危険に関する感覚的情報を得られる可能性がある。
とはいえそれだけでは、ゾウたちが取り乱して大声を上げながら、リーダーを生かしつづけようと試みた行動を完全には説明できない。親族たちが遺骸にはたらきかけたあとに観察された、長い静寂の時間も腑に落ちない。さらに、遺骸がなくなったあとにも死んだ場所を再訪しつづける理由も説明できない。
そうした反応をもとに、2006年の研究の著者らはこう結論づけている。「ゾウは人間と同様に、苦境にある他者に対して情け深い行動を示すことができる、という見方もできる」
ゾウたちの行動的反応が、複雑な情動処理の条件を満たすには、人間の悲嘆を正確になぞる必要はない。生物学では、主観的な体験よりも、機能と一貫性の方が重要になる。そして、死に対するゾウたちの反応は、本能、情動、生態、体験が接する境界線上に位置している。


