作品を振り返ってみよう。温暖化により上昇した海面に多くの都市が呑み込まれ、限られた資源維持のために妊娠が許可制となり、人々の生活にロボットが不可欠となった未来。一人息子が不治の病で植物人間状態にあるスウィントン夫妻は、A.I.研究の第一人者ホビー教授(ウィリアム・ハート)の開発した子供型ロボット、デイビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)を家に迎える。デイビッドは人間の少年にしか見えないが、食物摂取も睡眠も必要とせず、母となる人物を永遠に愛し続けるようプログラムされている。
しかし母モニカとデイビッドの間に実の親子のような情愛が育った頃、奇跡的に目覚めた息子のマーティンが帰ってくることになり、家族の空気はギクシャクし始める。息子の立場を独占したいマーティンはデイビッドに辛く当たり、ある事件が起こってついに夫妻は、デイビットを不用品として森に捨てる。
森でセックスロボット、ジゴロ(ジュード・ロウ)と知り合ったデイビットは、廃棄ロボット改修業者に捕獲され見せ物小屋に売られるといった”地獄めぐり”を体験。童話「ピノキオ」を信じるデイビッドは人間になってモニカに愛されたい一心で、童話の中に登場するブルーフェアリーを探し続け、最終的にホビー教授の元に辿り着く。だがそこで量産された「デイビッド」を目撃し絶望した彼は海へ落下。
二千年の時が流れ、人類滅亡後の世界で進化したロボットたちに発見されたデイビッドは、ロボットたちによってDNAから復元されたモニカと、ようやく一日だけの再会を果たす。
ここにあるのは、「愛」はお金で買える、もう少し丁寧に言えば、「愛」は科学技術で実現するという、身も蓋もない事実である。スウィントン夫妻は息子の不在を埋めるため高性能愛情ロボットのデイビッドを手に入れたし、ジゴロは女性が求めるイケメンとの理想的な性愛を売っている。またデイビッドは最後に、未来のロボットたちによって科学的に再現された母モニカに、最初にプログラムされた通り「愛」を注ぐ。
ラストの母子再会は、あたかも「母を訪ねて三千里」のようにハートウォーミングなタッチで描かれているが、実際はデイビッドの夢が叶った結果として、悪夢の世界に片足を突っ込んでいる。自分が捨てた擬似息子に、死後DNA復元されてまで逢わねばならないという恐るべきフィードバック。復元されたモニカに捨てた記憶のないことだけが救いだ。
この母子と表裏一体のように人間において描かれるのは、ロボットへの強い憎悪である。見世物小屋で廃棄ロボットが次々破壊されるさまに歓喜し、「私たちは人間!」と絶叫する人々。ここには、AIに仕事を奪われ「愛」さえも奪われた人間たちのヒステリーが充満している。既に我々の生活にAIが深く入り込みつつある現在、この禍々しい光景はもしかしたら訪れるかもしれないディストピアだ。
冒頭、「愛をもつロボットを作りたい」と述べるホビー博士に、チームの研究員が「愛を受ける人間側の責任は?」と問う場面がある。一方、母の「愛」を求め続けるデイビッドにジゴロは、「人間は君のサービスを期待してる。それは愛しているのとは違う」と諭す。
ジゴロの言葉に従えば、人間の愛情を学習したAIロボットの「愛」は顧客の都合に合わせてプログラムされたものに過ぎないため、それを受けたことに対しての倫理的責任は生じない、となるだろう。しかし、デイビッドの廃棄に際してモニカは、彼への強い愛着と罪の意識に苦しめられた。もしマーティンとデイビッドが平和共存できたら、彼女は決して、自分を愛し続ける理想的な息子であるデイビッドを捨てることはなかっただろう。


