昭和34年の盛夏であった。商店街のラジオからは、おなじみの歌謡曲が流れていた。零落感のあるセリフが挟まる。「うふ…、平ひら手て造み酒きも、今じゃやくざの用心棒人生裏街道の枯かれ落おち葉ばか。」(大利根無情、猪又良作詞)。
平手造酒はもともと江戸の名門、千葉周作道場の俊英だったが、酒乱で狷介な性格から身を持ち崩した人物とされる。典型的な負け組の転落エリートだ。
当時の流行歌には、高度成長の只中にもかかわらず、人の生業の儚さを主題にしたものが多かった。所得倍増計画が喧伝されて年ごとに給料は増え、無情や哀愁とはおよそ似つかわしくない世相だったはずだ。
昭和30年代はスタートアップ企業の時代でもあった。会社の新規開業率は概ね12%前後と昨今の3%台とは比べものにならない高さだった。開業率12%は現在の米国や英国の水準をも上回る。当時の廃業率は5%程度と開業率の半分以下だった。日本経済の新陳代謝が盛んで、人々に進取とリスクテイクの気概が溢れていたことは間違いない。40年代にもこの勢いは続いた。41年不況の下でも開業率は11%を維持し、廃業率は4%台に留まっていた。東証一部上場株式の時価総額は、40年から60年の20年間で23倍強に急増した。電子機器や自動車関連企業の中には60倍以上になったものも珍しくない。
悲壮感が漂う流行り唄は、その実、「根拠ある楽観」に支えられていたのではないか。
平成に入ると、これに急ブレーキがかかる。バブル経済崩壊と同期するように開業率が低下し、平成5年以降は3%台がほぼ常態化してしまった。他方で廃業率はむしろ開業率を上回っている。現政府の「日本再興戦略」が、「開業率が廃業率を上回る状態にし、米国・英国レベルの10%台を目指す」と掲げる理由がよくわかる。
異常な酷暑に見舞われた7月上旬のロンドン。コーンウォールテラスに立地する白亜の瀟洒な建物の会議室では、議論を終えた大和日英基金の理事たちが寛いでいた。彼らはSirやLadyの称号を持つ教養人である。米国SECの上級スタッフも経験したL理事が「英仏の開業率は米国より高いけれど、EUのベンチャーキャピタルの市場規模は米国の5分の1くらいしかないのよねえ」と嘆くと、長髭の教授が「今世紀になってから、電話会議のスカイプや音楽配信のスポティファイなど欧州発の巨大成長企業も数十社はあるよ」と応じる。
欧州の多くの伝統企業が新たな成長ドライバーを見出せずに低迷する半面、一部の企業は革新的な発想と果敢な実行力で高い成長を謳歌している。
実は日本にも似た現象がある。平成の20年間で市場全体の時価総額の伸びは2倍にも届いていないのに、ある大手IT企業の時価総額は40倍に、大手衣料会社のそれは60倍になっている。日本経済が「失われた」時代にも彼らは先見の明を伴う大胆な経営で伸びてきた。
先進諸国の成長率が低下する中で成長企業と停滞企業の差が拡大していく。なぜ差が生まれるのか。
「結局人間が何を考え、どう実行できるかの違いですわよね」とL理事。彼女はペイパルの創業者ピーター・ティエルの言葉を引いた。「いかにコンピューターが発達しても人間に代わることはない。最も価値あるビジネスは、人間を廃物にせず人々に自由な発想と権限を与える起業家によって築かれる」。
当然だ。経営も経済も人間が動かすものなのだから。そして人間は精神という複雑極まりない主人に支配されている。人間たちが綾なす企業活動は、とどのつまり人々の精神に左右される。法制度や公的支援策よりも人間への動機付けと人々の心模様の要因の方が大きい。成長戦略の紙背から、そうしたマインドを読み取りたいものである。
高度成長期の歌謡は侘しそうでありながら、その裏に未来を信じる進取の心を感じさせる。大利根無情の決めの文句は「行かねばならぬ。そこをどいて下され、行かねばならぬのだ」である。当時の起業家たちは、これを字面通りの被虐者のナルシシズムと理解するのではなく、どこか楽観に裏付けられたヒロイズムとして受け止めていたような気がする。アベノミクス勝負時の今こそ思い出したいメンタリティーではないだろうか。