自分を疑わないリーダーが払う代償
過信は瞬間的に心地よい。支配感と明快さが得られる。だがものの見方を狭める。疑わないリーダーは、不快な情報を遮断しがちだ。真実より承認を求める。やがて耳障りの良い言葉だけを口にする人に、囲まれるようになる。
こうして組織は回避可能な危機へと向かう。リーダーが耳を傾けなくなると、チームは警告を止める。リーダーが自己正当化すると、チームは検証をやめる。そしてリーダーが方針転換を拒む時、小さな問題は構造的な問題へと変わる。
過信するリーダーを前にしてチームが萎縮するのを、筆者は目の当たりにしてきた。人は慎重に話し、リスクを取らなくなる。アイデアを共有しなくなり、改善よりも承認を求めるようになる。誰もがリーダーの確信に迎合しようとするため、イノベーションはなくなる。
自己疑念はその流れを断ち切る。リーダーがエゴよりも探究を重視していることを示す。「私は何か見落としているかもしれない」と言うリーダーは、自分が正しいと主張するリーダーよりも早く信頼を築く。チームは緊張を解き、議論の質が向上する。厳しい情報もより早く共有される。
これは弱さではない。規律だ。疑念こそが権威を誠実なものに保つ。
疑念をリーダーシップの習慣に変える
自己疑念は意図的に活用して初めて、力を発揮する。リーダーはいくつかの簡単な実践で、その習慣を築くことができる。
まず、結論を急ぐ瞬間を意識することだ。自分の見解を固める代わりに、「他に何が真実になり得るか」と問いかける。些細なことのようだが、これは脳が慣れ親しんだものに固執しようとするのを防ぐ。
次に、自分の思考プロセスに他の人を招き入れることだ。「これが私の現時点の見解だが、あなたに反論してほしい」と声に出して言う。リーダーがその扉を開けば、チームは足を踏み入れる。人は隠していたかもしれない情報を共有し始める。
エゴを抑えるための個人的な習慣を、作ることもできる。内省的な日記を書く手法を活用するリーダーもいれば、確信しすぎているように見える瞬間を、信頼できる同僚に指摘してもらうリーダーもいる。重要な決定後に短い振り返りの時間を設け、見落とした点を問う人もいる。こうした実践は単純だが、やがて判断力を形作る。
目的は、ためらうようになることではない。気がつくようになることだ。気づきは適応力を高め、適応力こそが現代のリーダーシップに求められることだ。
最強のリーダーとは、疑念を消し去る人のことではない。疑念の使い方を知っている人のことだ。自己疑念を思慮深く軽く抱くことで、人はオープンな姿勢を保ち、好奇心を持って冷静でいられる。それは、リーダーシップが確信の演技ではなく、真実への献身であることを思い出させる。そしてたいていの場合、まずは自分を問い直す人の目に、真実は明らかになる。


