もうひとつ、ミュンヘンとは別の場所で「中心からの距離」を強く意識した経験があります。
それは、イタリアの夫の実家からリモートで仕事をしていたときのこと。実家にはインターネット回線がなく、自分の携帯のデータ通信で仕事をするのですが、回線は不安定で1時間以上のオンライン会議はかなり困難になってきます。夫の家族はもうリタイアしていますが、以前は自営業で主に農家に肥料や家畜の餌を売っていました。仕事の感覚が違うのでしょうか、私や夫がオンライン会議中だと何度も説明しても、昼どきには「お昼ご飯!」と元気に部屋に乱入してきます。
地理的にも精神的にも「郊外」に属す
初めはイライラしていたのですが、何日かして、むしろ仕事と生活の「良い距離感」ができていることに気づきます。夫の実家で生活していると、隣人の急な訪問があったり、午後には病院へ行ったり、隣町の親戚を訪問したりと、かなり即興的で忙しいスケジュールに巻き込まれていきます。ペースが乱されたことで初めて、パソコンの中で起きていることがいかにちっぽけかを思い出すのです。
夫含め、兄弟たちは誰も実家に同居していません。それぞれが異なる都市、異なる国、異なる職につき、家族が集まるのはイースターやクリスマスなどの長期休みの時期のみです。みんなでご飯を作ったり、子どもと遊んでもらいながら雑談していると、ふと彼らがそれぞれ何かのスペシャリストであることに気づく瞬間があります。社会や教育、政治などのジェネリックな話題でも、それぞれが別の生活の中心から意見を交わすので、不思議と会話が学際的で深いものになっていくのです。
そういった肩の力が抜けた深い対話は、「郊外」だからこそ起きているように感じます。ここでいう郊外は、都市から離れた場所という地理的な意味だけではなく、その地域に100%腰を据えていないけれども片足を突っ込んでいるという意味でもあります。どちらにも属さないのではなく、どちらにも「郊外」として属している。地域創生や貢献といった使命感ではなく、中心を別の場所に持ったまま、血縁や偶然の縁で「しょうがなく」居合わせているコミュニティの価値を再考してみたいと思いはじめました。
郊外というものを新たな中心として昇格させようとか、都市の不快を切り離した楽園を実現しようというようなことではなく、別の中心へのアクセスを保ったまま、地理的にも精神的にも「郊外」なままで人が居合わせ、勝手に交流してしまう場所として郊外を考える。そう思うと、何かの郊外に属していることが、案外エキサイティングに思えてきてしまうのは、私だけでしょうか。


