郊外が面白くなるのは、そこが「複数の中心からの郊外」として存在しはじめるときではないかと思っています。中心をひとつに決めないまま、その周縁に身を置きつづける「多中心をもつ郊外」というコンセプトを提案してみたいです。
そのイメージを持つきっかけとなったのは、安西さんが指摘された「子どもと高齢者との交流」にまつわる個人的な体験です。
「お客さん」から「住民」に
私は2019年から2024年までドイツのミュンヘンで暮らしていました。移住当初、フリーランスとしてリモートで仕事をしており、主な取引先はロンドン、ベルリン、東京などの他の都市にありました。物理的にミュンヘンに住んでいながら、仕事の中心は別都市にある、ある意味「バーチャルな郊外」で仕事をしているようでした。
1年も経たないうちにコロナ禍に入り、しばらくは地元の交友関係を築くことなく過ごしました。この時期はスーパーやパン屋、あるいは美術館に行く程度の、ほぼ観光客と変わらない生活をしていたように思います。
その意識が変わったのは、子どもができてからです。ミュンヘンでの妊娠・出産・育児を通してはじめて、この街の医療や行政の質の高さを実感しました。これまで払ってきた高い税金の価値をここで理解したのですが、サポートを受ける側になって初めて、「お客さん」から「住民」になったような感覚を覚えました。
さらに、本当の意味で「住民」になれたと感じたのは、地元の人との交流を通してでした。それまで街を一人で歩っているときは見向きもしなかったようなご老人たちが、子どもを連れて歩くと声をかけてくるようになったのです。それもかなりの頻度で。
以前は1人スーパーのレジに並んでいるだけで嫌な顔をされていたのが、子どもを連れているだけで、無差別に笑いかけてくる。この180度の変化に戸惑いながらも、そこから住民としての自信を得て、知らない人に自分から話しかけるようになりました。今思うと、彼らに住民と認識されてはじめて「そこで暮らす他の住民」に興味をもち始めたのだと思います。
さまざまな国で生活したことを振り返ると、人種差別的な態度を向けてくるのは、子どもか高齢者であることが多かったように感じます。個人的な感覚なので一概には言えませんが、思ったことが態度にでやすい層、ということかもしれません。だからこそ、彼らと交流を深めていくと、その地域の「生の社会」に触れている感覚があります。子どもや高齢者と仲良くなることで、この地域では何を大切にしているのか、どんなペースで暮らしが営まれているのか、ということがより鮮明に見えてくるのです。


