イタリアで都市構造の転換が再びはじまるのは1970年代です。都市の歴史地区の文化資産の見直し、都市景観を整えることで不動産価値もあがり、郊外に逃げた裕福な人たちも都心に住居を安心して構えるようになります。
80年半ばになると、景観の焦点は都市から田園や海辺あるいは山岳地帯に移り、地域特有の植栽計画や古い小さな都市の再生などが実施されます。78年に創業したクチネリが本社を人口500人の村・ソロメオに移し、その街の改修に手をつけはじめたのが80年代半ば。その頃、農家が民泊を営業できるアグリトゥリズモの法制化やスローフード運動も開始し、各地域の価値がそれぞれに高い評価を得るに至る大きな機転になりました。
それからおよそ40年、大きな都市と田園地域の小さな町は、お互いがシーソーゲームのように地位を築いてきました。ラグジュアリー分野の話題としても必須の風景と存在となってきています。そのなかで、取り残されつつあるのが郊外です。
ミラノ周辺のベッドタウンをみても、社会的に弱い立場の人たちが集まり、都心の人たちからは遠巻きにしか見られないゾーンもあります。だから、ここで必要なのは郊外そのものの意味のイノベーションではないか──違った眼鏡で郊外を見直すタイミングではないかと感じます。
イタリアの都市計画から学べること
戦後の日本とイタリアは若干の時期のずれはあるにせよ、都市で仕事をするサラリーマンの寝床としてのベッドタウン発生の背景には似たようなところがあります。そして、住人の高齢化とともに街としての活気を失ってきているのも両国に共通するところです。
言うまでもなく、新たな街として蘇るべくさまざまなプロジェクトが進行中であるのも確かです。それならば、この潮流とも合うべく新しいラグジュアリーを議論するのが妥当ではないか、というのが冒頭の青木さんと松場さんとの会話での要点でした。松場さんは石見銀山の麓にある人口400人の大森町で子どもが増えていることを強調します。ここからぼくが考えるのは次のようなことです。
従来のラグジュアリーは、子どもを排除した大人だけの空間をつくるに躍起でした。しかし、新しいラグジュアリーでは子どもが風景のなかに自然に入っていることを求めたい。さらにいえば、高齢者と子どもの交流が日常的である。あるいは体の不自由な人、いつも快調とは言い切れない働き手も風景から外れることがないような文化が醸成されているエリアであると考えたい。これは、郊外しかないのではないでしょうか。
1970年代、イタリアで都市計画が再考されたとき、歴史地区を観光客向けの張りぼてな文化遺産地区にはしないのが要諦としてありました。さまざまな社会階層と職業の人たちが同じ空間に住むことがイタリアの都市や建物の特徴であった、それまでの生活風景を守ることを大事にしたのです。ですから職人の工房も都心でそのまま稼働できるように努めたわけです。
我々が考えるべきは、このコンセプトが今、郊外に適用されるようにするにはどうするとよいか? です。前澤さん、ご自分の郊外論を展開してみてください。


