UNDER 30

2025.11.22 17:00

会社員とアーティストの分かれ道に立った トラックメーカー・STUTSのU30時代

プロデューサー・トラックメーカー STUTS

プロデューサー・トラックメーカー STUTS

2016年に1stアルバム『Pushin’』で鮮烈なデビューを果たして以来、日本ヒップホップシーンに数々のヒットを送り出してきたSTUTS。

『第69回NHK紅白歌合戦』では星野源の楽曲にMPCプレイヤーとして参加し、2021年にはドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』に提供した主題歌『Presence』が話題に。2022年には初の日本武道館ワンマン『STUTS “90 Degrees” LIVE at 日本武道館』を成功させ、2025年9月には初のアリーナ公演『Odyssey』を開催した。

「たとえ周囲から評価されなくても、自分がいいと思える音楽を作り続けたい」というSTUTSが、吃音との葛藤やサラリーマン経験を経て掴んだキャリアとは?「世界を変える30歳未満」を選出するForbes JAPAN 30 UNDER 30のアドバイザリーボードを務めた彼に、U30時代の話を聞いた。


子供の頃は、勉強が得意なインドア派。通っていた塾の試験で良い点を取って親に褒められるのが嬉しかった記憶があります。一方で、塾が無い日は友達とゲームに没頭したり、機械をいじって遊ぶのも大好きな、好奇心旺盛な少年でした。

小学4年生に上がる頃に、喋り方を誰かに注意されたことで吃音の症状が出始めました。カウンセリングを受けても治らなくて、いじめられたりとかはなかったけれど、人によってはからかってきたりして。自分だけ周囲と同じことができない悲しさや悔しさに悩みましたし、今でも完治させる方法があるなら知りたいです。

だから吃音を「個性」のひとつだと軽く捉えられるのは嫌でしたね。ただ、もし吃音がなかったら、自分は今とは違う人間になっていただろうとも思います。

12歳からリリックを書くように

ヒップホップとの出会いは、小学校5年生のとき。音楽好きの友達から借りたCHEMISTRYのアルバムに「BROTHERHOOD」というDABOさんをフューチャリングしたラップの曲があって、今まで聴いたことが無いサウンドがクセになって、一気に熱中しました。

当時、RIP SLYMEやKICK THE CAN CREW、エミネムが流行っていたのでそこから始まって日本とアメリカのHIPHOPに興味がどんどん広がっていって。夢中で聴いているうちに、自分でもヒップホップの曲を作りたくなって、14歳頃からリリックを書くようになったんです。
 
ただ、地元を離れ鹿児島の中・高一貫校に進学していたことで、パソコン・携帯電話禁止の寮生活を送っていました。 当時の環境下ではラップがしたくても、それを乗せるためのビートが手に入らない。いい友人には恵まれたのですが、学校でヒップホップを聴いているのも自分だけだったので、リリックだけでなくビートも自作しようと決意しました。 

学校で得られる情報は雑誌だけだったので、頼りにしたのはヒップホップ専門誌の『BLAST』。その中でビートメイカーのDJ MITSU THE BEATSさんがMPCという機材を紹介していて、それでビートを作ることができると知ったんです。

高校生一年生の夏にお年玉を貯めてMPCを買ってから、勉強時間以外はとにかくMPCを触って曲を作り続けていました。STUTSというアーティスト名を考えたのもこの頃です。

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文=フガクラ 編集=布施加奈子 写真=小田駿一

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