機械に温もりを宿し、人の心に寄り添う。自動ドアを“アッシャー”へと進化させたフルテックは、北海道で生まれ、全国へと歩みを広げてきた。「脱・メーカー代理店」を掲げ、顧客の立場に立つ購買代理業へと転換したその挑戦は、地方企業の未来を照らす灯でもある。父から子へ、理念をつなぎ、人の和を信じて企業を育ててきた古野重幸の軌跡を追う。
日本の老舗ラグジュアリーホテルでは、エントランスに立つホテリエをドアマン/ドアパーソンではなく「アッシャー」と呼ぶ。アッシャーとは門衛であり、個々に応じて来訪者をサポートする職能を指す言葉だ。日本の「自動ドア」は、便利なドア開閉機能から、人格すら感じさせるアッシャーへと人知れず進化してきた。
一般に建築部材の売上は建築着工件数の影響を受けがちだが、自動ドアの据付台数は景気に左右されることなく、1980年代後半から年間約15万台と安定して推移している。その背景には、用途の多様化がある。ホテルや商業施設のエントランスに限らず、製造現場や倉庫、オフィスの出入管理、非接触による衛生対策、さらには個室トイレの扉にまで設置の場が広がっているからだ。環境負荷軽減や省エネに向け建築物の高気密化にも貢献する設備でもあり、自動ドアは今や私たちの暮らしに不可欠な装置となっている。
首都圏以北で自動ドア装置に関わる商品・サービスを展開するフルテックは、北海道札幌市に拠点を置く企業だ。現在、古野重幸が代表取締役会長CEOを務める同社は、63年に古野の父が創業した北海道寺岡オートドアとして営業をスタートした。当時は、日本初の電気式自動ドアを開発した寺岡精工の販売部門、寺岡オートドアの販売代理店だった。その後、70年に宮城県仙台市への進出を果たし東日本寺岡オートドアと社名変更する。古野は大学卒業後、大手自動車メーカーに勤務していたが、30歳のときに父の体調不良を案じて札幌に戻り同社に入社する。
「その2年後の90年に創業者である父が亡くなり、密葬後、副社長だった私は社葬の葬儀委員長として亡父を見送りたいと取締役会を招集しました。しかし私の社長就任は見送られ、取締役と亡父との経営上の軋轢も否めず、会社が分裂する危惧を感じたことを覚えています」
眠れぬ夜の先に見えた光。「人を信じる」を経営の根幹に
結果的には社葬後に32歳で代表取締役社長に就任するが、経営者として苦悩の日々は続いた。「文字通り眠れぬ日々が続いていたころ、ある名僧の『相手の心は自分の心を鏡のように映す』と語る言葉に心を打たれ、相手を信頼し『人の和』を大切にする心境へと自身を改めました。意見対立も前向きに捉え、やがて専務ほか取締役との相互理解や信頼関係が築かれていきました」と社長就任当時の試練を振り返る。
1992年、古野は札幌の空港にいた。迎えに行ったのは、慶應義塾大学教授(当時)の嶋口充輝だった。講演のために札幌を訪れていた教授に、古野は名刺を差し出した。名刺には「東日本寺岡オートドア」と記されていた。自動ドアの販売代理店として事業を営んでいたころのことだ。
「自動ドアの販売代理店をしています」と自己紹介した古野に、嶋口は穏やかに、しかし核心を突く言葉を返したという。
「これからの市場は顧客中心に変わっていきます。メーカーの販売代理店という形では、今後生き残るのは難しいでしょう」
その言葉が、胸に刺さった。
確かに当時の事業は、メーカーの開発力やブランド力に大きく依存していた。上位にあるメーカーが方針を変えれば、代理店の命運も揺らぐ。そんな構造のなかで、約140名の社員を守れるのか。空港からの帰り道、古野の脳裏をその問いが繰り返しよぎった。
嶋口が示唆したのは、「顧客の立場に立つ購買代理業」という新しい可能性だった。
その出会いをきっかけに、古野たちは“脱メーカー代理店”を決意する。ゼネコンやサッシなどの業界だけを見るのではなく、使ってくれる顧客・ユーザーに向き合い、自らに求められる価値を購買のプロとして提案する――その転換点が、今の同社の礎となっている。
嶋口との出会いの翌年に、古野は企画開発室を新設。脱メーカー代理店のために永年続いた代理店契約を破棄する決断は「本当にハードルが高かった」と古野は語る。
「顧客と市場のニーズを能動的に把握し、それに即した商品やサービスを自らの力で提供する自立した企業を目指す。脱メーカーと言っても自社に製造機能はなくゼロからのスタートでした」
しかし、結果、メーカーの製品販売の枠内に押し留められていた成長の可能性は一気に広がる。「ものを売る」から「サービスを売る」企業へ。企画開発室は現在の商品開発部となり、時間は要したがユニークな独自開発製品も取扱製品のラインアップに加わった。
例えば「eメディアドア」はAIの画像解析で人の動きや車椅子の出入室を検知、開閉速度や開閉幅など適切な制御を行う。開閉に伴う冷暖房負荷を最小限に抑え、AIがドア通過者に応じた情報をオンデマンドで事前に表示することも可能だ。さらに、視覚障害や下肢障害をもつ人々へのリサーチから、個々の属性に合わせた最適な開閉を行うスマートフォン連携ユニバーサル自動ドア「ミライロドア」も上市した。同製品は2025年に「札幌身体障害者福祉センター」のエントランスに導入されている。
他社にはない機能や価値の開発。開閉するだけの自動ドア装置から「一流アッシャー」への進化は、脱メーカー代理店への業態転換と地道な顧客ニーズ発掘の成果といえる。
屋号から「寺岡」を外しフルテックへ
フルテックの大きな節目となったのは01年。同年、東京の販売代理店をM&Aで合併し首都圏進出を果たした。同時に「モノ」を売る企業から「安全で快適なアクセスとアメニティ」というサービスを手がける企業への転換を図り、東日本寺岡オートドアの社名を寺岡ファシリティーズに変更。15年には、創業当時の看板だった「寺岡」も外しフルテックへと再度の社名変更を行った。また、バブル景気崩壊後も地方拠点を維持し、営業から保守までをすべて正社員で内製化し顧客対応力の強化にも取り組んできた。
現在全国に38拠点を展開し、製品に不具合があれば2時間以内に対応するアフターサポート体制を構築。IoT技術による24時間365日の遠隔モニタリング保守サービス「Fi-R(エフアイリモート)」も業界で初めて実現した。
「北海道、東北に留まり、メーカー代理店のままなら売上70億がせいぜいでしょう。購買代理店を目指し首都圏進出を実現したことで、当社の売上高は年間138億を超え、来たる30年には売上高200億を目指す企業にまで成長することができました」
大まかな売上比率は、北海道・東北ブロックと関東首都圏ブロックがそれぞれ約50%となっている。
17年には東証二部上場、翌年18年に東証一部に指定替え、22年に東証スタンダードへの移行も実現。当初目指していた自立した企業への成長を果たし、古野は25年3月末で社長を退任して代表取締役会長CEOに着任した。34年間の社長在職中には、言うまでもなく、さまざまな出来事があったが、特に印象に残るのは1996年の決算とその後のこと、と当時を振り返る。順風満帆ばかりではなく、バブル景気崩壊の数年後、96年にはじめて減収減益の決算を経験した。
「当時、大きな危機感から社員に向けて収益改善の緊急対策をお願いしました。ボールペン1本も無駄にしないように、地道な改善も実践してもらいました。社員も驚いたと思いますが、個々の尽力で環境の厳しさを跳ね除け、なんと翌年度の決算は増収増益で終えられたのです。
家族に対するような社員の真摯な取り組みとその好結果に、社長業は厳しいけれど嬉しいこともあると感激しました。大家族主義的な企業経営は国際的には日本経済低迷の元凶のように揶揄されますが、日本には日本の風土に合った経営のあり方、会社と社員の関係があると思っています」
それは期せずして、先代社長が創業以来大切にしてきた理念でもあった。
営業から施工、アフターサービスに至るまで、すべてを自社社員で担い、高いクオリティを追求する。「人」を中心に据え、「人の和」を大切にする組織だからこそ、フルテックは新たな付加価値を生み続けている。
ふるの・ しげゆき◎早稲田大学卒業後、トヨタ自動車工業に入社。7年の勤務を経て、1988年に東日本寺岡オートドア(現フルテック)に入社。90年10月、32歳で同社代表取締役社長。2025年3月末に社長を退任し、代表取締役会長 CEOに就任。最近の受賞:EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー 2025 ジャパン 北海道地区代表に選出。
フルテック
本社/北海道札幌市中央区南1条東2丁目8-2 SRビル3階
本店所在地(札幌支店)/北海道札幌市中央区北13条西17丁目1番31号
URL/https://www.fulltech1963.com
連結従業員/約719名(2024年12月31日現在)




