都心からさほど遠くない埼玉県入間郡三芳町で産業廃棄物中間処理を行う石坂産業は、地域の誇りといわれ、循環型の先進企業である。しかし、わずか20年ほど前には住民から立ち退き要求を受け、企業存続の危機に陥っていた。出て行って欲しいと言われた企業が、なぜ、ここまでの変貌を遂げたのか。反対運動の渦中に社長に就任し、社員を、取引先を、そして地域住民の考えを変えていった2代目社長の戦いを追う。
歴史好きな人であれば、徳川綱吉の側用人として知られる柳沢吉保の評判が芳しくないのはご存じだろう。しかし、川越藩主時代、原野広がる武蔵野台地に里山をつくり、肥沃な農地に変えた。そのため地元では名君として知られる。ところが、その300年後、大事業を支えた里山は不法投棄のゴミの森となり、その一角にある産業廃棄物処理を行う石坂産業もテレビ報道による誤報をきっかけに地域住民から業務取り消し裁判を起こされていた。
いわれなき非難なのだが、反対運動はなかなか収まらず、会社への風当たりは厳しくなる一方だった2002年、一人の女性が社長に名乗りをあげた。あえて火中の栗を拾ったのは、創業者の長女で、当時は、ただの一社員だった石坂典子。決意のきっかけは、事業に対する父の思いを聞いたことだった。
石坂産業(当時は石坂組)は創業当初、家屋の解体などを行い、その廃材は夢の島で東京湾に埋め立てされていたが、のちの1987年に産廃処理を事業にした。創業者で現相談役の石坂好男は「資源のない国が再利用も考えずに埋め立てをしている。”廃棄物”を”ごみ”にしない社会をつくらねば」と思い、産廃処理を事業にしたと語ったのだ。
「職人気質で口数も少ない父なので、そんな志を抱いていたのかと驚き、胸が熱くなりました。同時に、この父の会社をなんとしても守らなければ、この志を伝えなければと思ったのです。そして、それができるのは自分だけ。次の瞬間、『会社を継ぎたい』と口にしていました」と振り返る。
父は驚いた顔で、一度は「女にはできないよ」と断ったものの、2週間ほど後、何かしらの成果を挙げることを条件に、一年任期で代表権のない取締役社長に任命した。しかし、待っていたのは社員からも、地域住民からも突きつけられる現実。社員からは「御令嬢に何ができるか」などと言われたが、10年勤めた経験と、父の思いが、どんなひどい言葉を投げかけられても「知らん顔」で通す勇気をくれた。
気づけば社員が半数近くに
社長に就任した石坂が会長となった父に提案したのは2つ。
ひとつが、廃棄物処理をこれまでの焼却からすべてリサイクルに変えようというものだった。焼却処理は容積を小さくし、効率もいい。しかし、焼却のイメージが反対運動につながったことから、それを変えたかった。「厳格な父が少し沈黙したあと、『地域に愛されない仕事をしていても仕方がないか』とつぶやいたのが、印象に残っています」と石坂は振り返る。
リサイクルに完全転換する理由は他にもあった。当時、大規模不法投棄が問題となっており、なかでもトレーサビリティ情報のない建設系の廃棄物は不法投棄されやすかったからだ。ならばと、その建設系廃棄物に特化した全天候型のプラントをつくることに決めた。
とはいえ、これまでの焼却を求める取引先の引き取り手を探さねばならない。就任早々、全国の焼却施設を100軒以上訪ね、頭を下げて受け入れをお願いしにいく。同時に、プラント建設の許可を取るため県の土木事務所を訪れるのだが、「裁判を抱えているところに許可は出せない」と建築許可はなかなか下りなかった。石坂も「最後の生き残りをかけての環境整備だ」と食い下がるが、埒が明かない。そんな時、別の担当官が助け舟を出してくれ、半年かかったが、なんとか許可をもらった。
もうひとつの提案が国際規格ISOの導入。新たな設備投資を行うためにも、価格で選ばれない会社にしなければならない。そのためには社員の質の向上が欠かせないと考えたからだ。会長からは「名刺に国際規格が入るだけで社員が優秀になると思うなよ」とクギを刺されたが、理解を得て計画はスタート。しかし、「社員たちから猛反発を食らい、多くが辞めていき、気づけば社員は半数近くに減っていた」と振り返る。
しかし、変革を止める気はまったくなかった。
建設系の廃棄物は混合廃棄物といってリサイクルのなかでもいちばん難しい。あえてその分野に挑むためにも、他社がマネできない技術にするべく、技術屋である会長とともに機械設計から携わり、トヨタ生産方式など、参考にできるやり方を学んで経営に活かしていった。
また社員には、毎日現場に出向き、仕事の意味や役割を繰り返し話し、リサイクルによって資源を循環させることが社会にどういったインパクトを与えるのかも伝えていった。さらには、仕事や経営に関する情報や数字を社員にオープンにすることで、仕事や給与の不満を解消し、働く納得感を引き出していった。石坂はこれを「見える化」ではなく、「見せる化」というが、この見せる化が社内だけでなく、社外との関係も変えていくことになる。
おばあちゃんと約束した「やまゆりが咲き誇る里山」
反対住民との関係は、焼却処理からリサイクルに変えたことで沈静化するかに思われたが、いつしか目的が地域から石坂産業を追い出すことに変わっていた。裁判も行政裁判だったことで長期にわたり、仕事が終わってからも弁護士との打ち合わせが続く。
石坂には子どもが2人いたが、まだ小さく、保育園に迎えに行けるのはいつも最後。小さな我が子を両手に抱きしめながら家に帰ると、遊んでやれずに申し訳ない気持ちが募った。社長業と家庭の両立で、当時の夫との関係も悪くなり、苦しくても弱音を吐けない日々が続いた。唯一、自分をさらけだせたのはお風呂だけ。だから、何度も風呂場で泣いた。
でも、ひとしきり泣くと前を向けた。父の思いが振るいたたせてくれたこともあるが、くじけそうなとき、「社長が辞めるんだったら俺も辞める」といった社員の声や誰かの応援があったからだ。

反対運動に対しても「見せる化」を徹底していった。地域の不満足を満足に変えるまでやると決め、反対している人たちをすべて工場に招き、見てもらった上で、悪いと指摘されたところについては、すべて直していった。
そしてもうひとつ地域との関係を変える決め手になったのは、地元のおばあちゃんとの約束。彼女の「やまゆりが咲き誇る里山に戻したい」という願いに、石坂が「私がやります」と名乗りを上げ、すぐに「やまゆり倶楽部」を立ち上げた。
地域の人たちとともに、工場まわりの不法投棄で荒廃した森を再生していく活動を開始。それは生態系を取り戻す活動であり、かつて柳沢吉保が武蔵野台地を肥沃な農地に変えたやり方だった。そのやり方とは、水の確保が難しい台地に落葉樹を植えたことだ。それによって木々が水脈を押し上げる。また、木々の落ち葉が堆肥となり、落ち葉を掻くと日が当たり、そこに夏、やまゆりが咲くという自然循環をつくっていた。やまゆりは生態系循環が保たれているというバロメーターなのだ。
かつてやまゆりが消え、森や山が荒れたのも、落ち葉から堆肥をつくらなくなり、薪がガスに変わったことで地域の循環が壊れたことが原因だった。それをやまゆり倶楽部の活動を通じて取り戻すことで、いつしか石坂産業に対する目も変わっていった。それは、反対運動に署名した3,000人を超える人数が、やまゆり倶楽部に入会したことが物語っている。
「なんだかんだで10年ほどかかりました。裁判で逆に勝ったことも大きかったし、私たちのような産廃処理産業が無ければどうなるか、ごみを生まない社会構造にしなければならないことを繰り返し伝えたことも大きかった。反対派だった人も今や、一緒にお茶を飲む関係です」
そして、石坂産業の敷地面積の8割にあたるその里山は、2013年「三富今昔村」としてオープンした。今や地域自慢の場所となり、同時に、生物循環や環境問題を考える教育の場として活用されている。
会社の代表権を引き継いだ時に80人だった社員は、いまや230人。でも、満足はしていない。事業でも「循環」を重視し、リサイクル製品の価値向上に力を入れる。混合廃棄物からタイルをつくり、太陽光発電パネルを素材に戻す技術も確立した。「大事なのは考え方で、ごみをごみにしない社会をつくることが、私たちのやるべきこと」という。
そのため事業を成長させながらも、拡大を追い求めることはしない。むしろ、その根本にある教育に力を注いでいる。「産廃処理は出て行け」と言われた時に痛感した「消費する責任」を社会に根付かせるべく、学校や行政と連携を深め三富今昔村を舞台に啓蒙を続けている。
あらためて考えれば、石坂産業の思想は最初から何も変わっていない。産廃処理も自然環境も、循環が重要だとはなから言っていた。ただ、父の思いを理解してもらい、柳沢吉保の残した遺産を取り戻しただけだった。ありがたいことに、SDGsやESGによって世間の理解も深まっている。だから、「これからは循環の考え方など、同じ思いを持った人たちにバトンをつないでいきたい」と石坂は言う。次のやまゆりを咲かせる人を育てることが、彼女の次なる使命なのだ。
石坂典子◎1972年、東京都生まれ。米国に短期留学後、92年に父が創業した石坂産業に入社。2002年取締役就任。プラントの全天候型化、ISO7種統合マネジメントシステム導入、国内外からの視察・見学の受け入れといった数々の改革を断行。13年、代表権を得て、現職に就任。20年、Forbes JAPANスモールジャイアンツアワード「LOCAL HERO賞」受賞。著書に『五感経営 産廃会社の娘、逆転を語る』(日経BP社)など。
石坂産業
本社/埼玉県入間郡三芳町上富1589-2
URL/https://ishizaka-group.co.jp/
従業員/約230名(2025年10月時点)




