オーレックの草刈機は、世界の30カ国以上で使われている。乗用草刈機「ラビットモア」は、ワインの産地として知られるフランスのボルドーやシャンパーニュ、ブルゴーニュ地方のぶどう畑でも活躍中だ。農業従事者に新たな価値を提供し続けてきた今村健二は今、2050年の人々の幸せを見据えて挑戦を続けている。
つらい農業を楽しい農業に変えていく
福岡県八女郡に本拠を置くオーレックは「世の中に役立つものを誰よりも先に創る」という創業精神のもと、草刈機や水田除草機といった小型農業機械の分野で独創的な製品を次々と開発してきた。「田んぼの畦(あぜ)や傾斜地などで使われる自走式草刈機」や「果樹園などで雑草を除去する乗用型草刈機」を擁し、自走式および乗用型草刈機の国内市場でトップシェア(約4割)を誇る。代表取締役社長の今村健二が語る。
「例えば、乗用型草刈機『ラビットモアー』なら、果樹園の低い枝の下に生えた草も座ったままで楽に刈ることができます。自走式草刈機『ウイングモアー』は、田んぼの畦の側面と上面を同時に刈り取ることが可能です。さらに、自走式草刈機の『スパイダーモアー』なら、長くて急な斜面も安全に作業できます。これらの草刈機には、従来にはなかった価値を業界ではじめて盛り込んでいます。それは、使われる場面ごとに最適化された『楽で、効率的で、安全』という価値です」
この「楽で、効率的で、安全」という三位一体のバリューが、つらい農業を楽しい農業へと変える。きつい草刈りを誰もが苦労なしで行えるようにしたインパクトは大きい。日本全国の農地で、子どもが、孫が草刈りを手伝ってくれるようになったという。
今、オーレックの草刈機は、単に小型農業機械であることを超えて「親孝行(あるいは祖父母孝行)の機械」としても活躍している。
「かつては農作業に興味を示さなかったお孫さんが喜んで『ラビットモアー』に乗っている姿を見て、涙を流して喜んだベテラン農家さんがいらっしゃいました。草刈りという作業をきっかけにして家族二代、三代のコミュニケーションが深まり、後継者問題を解消する起点にさえなるかもしれない——。現場で農家さんの涙に接したとき、これまで全身全霊をかけて自分の仕事に取り組んできてよかったと、私も心から思うことができました」
孫が笑顔で「ラビットモアー」に乗っている光景は、つらい農業が楽しい農業に変わっていることの何よりの証拠であり、未来に向けての明るい展望そのものである。

業界初の乗用型草刈機「ラビットモアー」は、1992年に誕生した。それ以前に果樹園などで使われていた歩行型草刈機は、低い枝の下を刈る際に腰をかがめなくてはならず、振り回しも大変だった。「ラビットモアー」であれば、低い枝の下はもちろんのこと、ぬかるみ、凸凹、傾斜地も走破可能。切り株や石に当たってもびくともしない。大型の草刈機が入っていけない狭い場所でも活躍し、値段も安い。
極限まで追い詰められ、起死回生のアイデアが浮かんだ
今村が言う「全身全霊」は、「超顧客志向」を完遂していくための態度だ。
「オーレックの起源は1948年、私の父が立ち上げた大橋農機製作所です。創業当初の主力製品は、田んぼから水を汲み上げる『水揚げポンプ』でした。私が入社したのは76年で、当時の営業圏は九州のみ。私が『全国に挑戦しよう』と言うと、父は『お前がやってみろ』と新規開拓を命じました。そこで、小さなトラックに当時の草刈機などを積み込み、千葉、茨城、栃木、神奈川、群馬など東京周辺の販売店の行脚を始めたのです。当時の私は、25歳でした」
しかし、福岡から長距離を運転して各県を周る営業活動を2年間ほど続けたが、目立った売り上げにはつながらなかった。
もっと本腰を入れていかないとだめだ——。
そう決意した今村は、結婚して間もない妻とふたりで埼玉に転居した。
「熊谷市に小屋を借り、事務所兼住居にして、そこを拠点に各県をひたすら回りました。ところが、ようやく少しずつ売れ始めたと思った矢先、今度は故障が相次ぎ、クレーム対応に奔走することになってしまったのです」
人間万事塞翁が馬。そのときに農家に入り浸りになったことがブレイクスルーの発端になったと、今村は振り返る。
「現場に入って自ら修理し、農作業をして試してみる、さらに改良しては、また試す、その合間にお客さんから日々の悩みを聞く——。この繰り返しです。遂には、体が限界を超えてしまいました」
営業活動と顧客対応の現場を担っていた今村だが、元来の彼は大学の工学部を卒業したエンジニアである。父が創業した会社には、新たな機械の設計者になるつもりで入社していた。しかし、あまりの忙しさのなかで、今村は命さえも落としかねない急病に冒されてしまう。意識が朦朧とする最中、極限まで追い詰められた今村の脳裏に、遂にひとつのアイデアが浮かんだ。
「それまでにも、農家に入り浸るなかで思いついたことをノートに書き記していました。あのとき、それらの断片たちがひとつの製品アイデアに集約され、私の脳裏にくっきりと浮かび上がったのです」
危機のなかでの覚醒——。それは、必然だったに違いない。82年、業界の常識を見事に覆した新製品が誕生した。
「それまでの自走式草刈機は大型で低速なものが主流でした。小型化したものは、より低速になるのが常識でした——。私の頭に浮かんだのは、『小型でありながら、大型と小型の問題点を同時に解決するエンジニアリング』です。すなわち、狭い場所にも入れて、取り回しが楽で、キレイかつスピーディーにノンストレスで楽しく草刈りできる機械が誕生したのです」
以降、オーレックは業績を大きく伸ばしていくことになる。徹底的にお客様の立場でものを考える「超顧客志向」が企業文化として根付き、創業以来の「世の中に役立つものを誰よりも先に創る」という精神と渾然一体になり、次々とヒット製品を生み出していった。
人々の幸せを願って事業ポートフォリオを拡大
創業から70年の月日を経て、オーレックは間もなく80年の節目を迎える。その間、農業機械の市場は大きく様変わりし、国内市場の規模はピーク時から半減した。それでも、同社は右肩上がりの業績を堅持してきた。
「私たちは、売上のことを『貢献高』と呼んでいます。それは、徹底して『超顧客志向』を貫きたいからです。騙し売り、押し売り、損切り売りしても売上ですが、それは本当の売上ではありません。私たちは、世の中の役に立てた、お客様に貢献することができた金額のみが売上だと捉えています」
貢献高を積み上げていくなかで、オーレックは生産体制のあり方も磐石なものへとシフトしてきた。
「私たちは、歯車などの小さな部品に至るまで自社で製造する一貫生産体制を築いています。妥協なきものづくりを続けながら、部品の大量生産に必要なプレス金型なども自社で設計して『4つの金型+溶接』が必要だった部品をひとつの金型で済ませるなど、コスト削減効果も追求し続けています。また、新製品の試作段階で行われる『デザインレビュー』というミーティングもオーレックらしい取り組みです。これには開発部だけでなく営業部や経営陣などがセクションをまたいで参加して、意見を出し合います。個人や部署に偏在しがちな現場感覚や知識やノウハウを広く共有することで、さまざまな課題を克服しながら、世の中に役立つ、新しいものを創出しているのです」
現在、オーレックが考える「世の中に役立つ仕事」は、さらに新たな地平を切り拓いているようだ。
「私たちは、『草刈りという作業のあり方を変えること』を超えて、『農業のあり方そのものをサステナブルに変えていくこと』にも挑戦しています。これまでにも乗用型草刈機『ラビットモアー』で草刈りの手間が大幅に削減したことで、除草剤を使わない有機的な栽培ができるようになったという声を多く聞いてきました。私たちの草刈機は、より安心・安全な農産物の生産を後押しするという意味でも世の中の役に立ってきたのです」
次なる地平は、農業機械製造業から有機農産物普及業へと事業ポートフォリオを拡大することだという。
「今、有効な有機農法をベースに、そこで使われる肥料をつくるための機械とノウハウを融合させたシステムを開発中です。『田んぼの畦の側面と上面を一度で同時に刈る機械を開発したい』と考えたときも『そんなのは無理だ』と外部からは散々言われました。今、『日本の農業の有機栽培率を上げていきたい』と言うと、同じように『そんなのは無理だ』と言われます。私は、周囲が不可能だと唱えることにこそ、チャンスがあると確信しています。安心・安全な作物は、日本の、そして世界の人々の幸せに直結していくものです。農業機械製造業のみならず有機農産物普及業にも挑戦する。それが私の使命であると考えています」
2020年のデータによると、日本の農地に占める有機農業の割合はわずか0.6%に過ぎない。この数字は、欧米諸国やアジアの一部の国と比べてかなり低い。政府は有機農業の支援に向けた政策を打ち出し、21年に「みどりの食糧システム戦略」を策定した。50年までには有機農業の耕作面積を25%に引き上げる目標を掲げている。
0.6%を見過ごさず、そこにも機会と使命を見出すアントレプレナー。彼の全身全霊は、まだまだ終わらない。
オーレックホールディングス
本社/ 〒834-0195 福岡県八女郡広川町日吉548-22
URL/ http://www.orec.holdings
従業員/ 485名(連結) 349名(単体)(2025年3月31日現在)
いまむら・たけじ◎1952年、福岡県生まれ。明治大学工学部卒業。76年、大橋農機(現オーレック)に入社。関東から東北エリアの市場を開拓し、現場の声を反映した製品を大ヒットさせる。88年、社長就任と同時に社名をオーレックに変更。2010年、米国シアトルにオーレックアメリカを設立。23年、持株会社体制へと移行し、オーレックホールディングスを設立。




