AIに歌を歌わせると、例えば人間には出せないようなとても高い周波数帯域の音が重なり合い、独特なハーモニーが生まれる「予期せぬ効果」も得られたという。「新しいテクノロジーを使ってこそできる表現も積極的に採り入れた」のだと、作曲家としての松任谷由実が語る。
制作過程では「AIに対して一方的に歌い方を指示するのではなく、私自身もAIの特性を理解しながら歌うことが求められた」と、ボーカリストとしての松任谷由実が振り返る。まるでシンクロナイズドスイミングの選手が、互いの呼吸と動作をミリ秒単位で合わせていくような緻密な作業を繰り返してきたという。テクノロジーと人間が互いに影響を与え合いながら、より高い次元の表現に向かって突き進む、まさしく「AIとの共生」だ。
楽曲を1曲ずつ丁寧に作り上げる段階では、ユーミンと一緒に創作に携わったすべてのクリエイター陣が膨大な時間と労力を惜しむことなく費やしてきた。アルバム『Wormhole』は、AIという仲間を加えた新しいチームワークによる結晶だ。
データ化されない「余白」の美しさを捉える創作の醍醐味
ほかにも制作過程のさまざまな場面で「AIとの共生」を実現した。ひとつはレコーディングの場面。まだ歌詞を付ける前の段階では、仮のメロディとして“ラララ”で歌うフレーズを入れることがある。クロノレコーディングシステムがあれば、ラララの仮メロディも「第3の松任谷由実」の歌声で制作して、バンドのミュージシャンがこれを聴きながら、より熱のこもった演奏に打ち込める。
ユーミンもまた、メロディに詩を載せて音節を調整したり、自身の歌い方の方向を定める作業にもクロノレコーディングシステムを活用したそうだ。
本作の歌詞制作に関わるところで、ユーミンがあるエピソードを振り返った。ChatGPTに「松任谷由実らしい歌詞」を生成させてみたのだという。もちろん、その意図はあくまで生成AIの実力を知るためであり、実際の楽曲に採用したわけではないが、試用を経ていくつかの気づきもあったようだ。
「ChatGPTが生成した歌詞は、表面的にはそれなりの形にはなっていて、日本語の意味も通じるものでした。ところが私の心の琴線に触れる言葉やフレーズが生まれることはなく、新鮮味も感じられなかった」
ユーミンは、AIとの距離感を測るうえで興味深い気づきを得ることができたと語る。


