経営・戦略

2025.11.15 15:00

年商1.5兆円を目指す冷凍食品大手リッチ・プロダクツ、家業と地元を守り抜く覚悟

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大豆由来ホイップの開発と訴訟を乗り越え、市場を切り開いた創業者ボブ・リッチ・シニア

バッファローの酪農家の息子として生まれたボブ・リッチ・シニアは、高校時代の夏休みに父親の牛乳配達を手伝い、1935年の卒業後、自ら乳業会社を立ち上げた。事業はすぐに地域有数の規模に成長した。第2次世界大戦中、乳製品が配給制となると、彼はミルク管理官として従事した。その際、ある病院の購買担当者から「ヘンリー・フォードのジョージ・ワシントン・カーヴァー研究所が、大豆を原料にしたミルクやクリームを使っている」と聞いたことがきっかけで、新しい発想を得る。

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ボブ・シニアはその研究所を視察したのち、わずか1ドルでその製造システムの使用権を得た。そして、ホイップクリームよりも脂肪分が少なく、腐りにくく、低コストで製造できるデザート用トッピングを一般向けに開発しようと決意した。

青い缶に詰められたリッチ・プロダクツの植物性ホイップクリームは大ヒットとなった。発売初年の1945年には2万9900ドル(約460万円。現在の価値で約54万ドル[約8300万円])の売上を記録。戦時中の配給制度が終わり、食料支出が拡大するにつれて、売上も急成長した。1952年には初めて売上が100万ドル(約1.5億円。現在の価値で約1200万ドル[約18.5億円])を突破した。乳業界から「偽のクリームを作っている」との訴訟を40件も起こされても、ボブ・シニアはひるまず、製品を次々と世界に広めていった。

ボブ・ジュニア、プロホッケー選手志望から初の海外事業部の社長へ

「父はよく『自分のオフィスは飛行機のトレイの上だった』と冗談を言っていた」と語るのは、息子のボブ・ジュニアだ。彼は高校時代から夏休みや放課後に家業の倉庫で働いていたが、本格的に事業に加わったのは1963年のことだった。実はその前、ボブ・ジュニアの関心はまったく別の方向にあった。バッファローのアメリカン・ホッケー・リーグ(AHL)チームで控えのゴールキーパーを務め、1964年のオリンピック代表選考では落選。空軍やCIAの面接も受けていた。そんな息子を父親ボブ・シニアが引き戻したのは、「カナダに新工場を建設し、初の海外事業部の社長として100万ドル(約1.5億円。現在の価値で約1000万ドル[約15.4億円])の予算を任せる」という誘いだった。

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父と息子の関係は、当初は競い合うようなものだった。しかし、ボブ・ジュニアが新たにカナダで立ち上げた工場で生産した約2300キロ相当の最初のホイップトッピングがうまく泡立たず、彼がプライドを捨てて父ボブ・シニアに助けを求めたとき、2人はようやく「同じチームの仲間」だと気づいた。

リッチ・プロダクツにとって最初の大規模買収は1976年、年商が初めて1億ドル(約154億円)を突破した年のことだった。同社は冷凍シーフードのSeaPakを1150万ドル(約17.7億円)で買収し、企業買収によって事業を拡大するという成長戦略を確立した。

カナダ進出と買収で事業を拡大した2代目ボブ・ジュニア、ミンディと組んだ食品コングロマリット

その2年後に社長に就任したボブ・ジュニアは、これまでに60のブランドを買収によって傘下に収めてきた。また、地元バッファローから球団が流出しないよう、経営難に陥っていた同地のマイナーリーグ最高位の野球チームを買い取り、1983年からはトロント・ブルージェイズ傘下のマイナーリーグ球団「バッファロー・バイソンズ」を所有している。

その年の後半、ボブ・ジュニアはバッファロー・バイソンズの試合で、16歳年下のミンディと出会った。彼女もまた、シンシナティに本拠を置く、ドーナツやオニオンリングなどを販売する家族経営の食品会社の出身だった。

2人は結婚した。これはボブ・ジュニアにとって3度目の結婚だった。ミンディは1985年、新婚旅行から戻ったその日にリッチ・プロダクツで働き始めた。最初の担当は社内エンターテインメント部門だった。(のちに彼女は、自分の実家の会社が経営難で売却されたあと、いくつかのブランドが転売され、オニオンリングのブランドが最終的にリッチ・プロダクツ傘下に入っていたことを知ることになる)。

「食品業界で育った私にとって、結婚後に別の会社で働くなんて考えられなかった」とミンディは語る。1996年には、リッチ・プロダクツの年商は10億ドル(約1540億円)を突破していた。

2006年に父ボブ・シニアが92歳で亡くなり、ボブ・ジュニアが会長職を引き継いだ。父は61年間にわたって会社の舵を取り続け、亡くなるまでポケットには常に、会社の年商が書かれた折り目だらけの紙を忍ばせていたという。リッチ・プロダクツは創業以来、1年たりとも赤字を出したことがなく、その記録は今も続いている。フォーブスは、シニアが亡くなった年の同社の年商が24億ドル(約1540億円)だったと試算している。

ボブ・ジュニアは少なくとも15億ドル(約2310億円)相当の資産を相続した。家族の持ち分の残りの数億ドル(数百億円)は、聖職の道を選び、ミシシッピ州ジャクソンに移住して英国国教会で働いている弟のデイビッドが受け継いだ。妹のジョアンナは、夫が義父を2度訴えていずれも敗訴したため、相続から外された。

2013年、リッチ・プロダクツの年商が30億ドル(約4620億円)に達すると、同社は再び買収攻勢に転じた。スムージーマシンの特許ブランド「F’Real Foods」や、卸売ベーカリー企業3社を次々と傘下に収めた。

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翻訳=上田裕資

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