フェイスブック創業で生まれた200億ドル(約3.1兆円。1ドル=154円換算)の資産は、現在何に使われているのか。その配分を決めているのは、同社共同創業者ダスティン・モスコビッツの妻であり、元ウォールストリートジャーナル記者の慈善家カーリー・ツナだ。
彼女は、感情ではなくデータと合理性に基づき、最も多くの人を助けることを目指す「効果的利他主義」の考え方を軸に資金の行き先を選んできた。ChatGPTが登場する前からAIの安全性研究に資金を投じてきた一方で、マラリア対策・ビタミンA欠乏症・安全な飲料水など費用対効果の高い公衆衛生にも巨額を振り向けている。本稿では、このビリオネア夫妻が200億ドル(約3.1兆円)の資産をどのような優先順位とロジックで世界に配分しようとしているのかを追う。
急拡大するAI投資のリスク認識と、原子力規制から学ぶ教訓
「人工知能は原子力に似ている」と語るカーリー・ツナは、米国の原子力産業が初期の事故によって「事実上、規制で消されてしまった」と述べている。「もし、もっと早い段階で慎重で的確な規制が行われていれば、事故は防げたかもしれないし、今以上のイノベーションが起こり、気候変動対策も進んでいたはずだ」と彼女は指摘する。
「そして今や、数千億ドル(数十兆円)がAIの能力向上に投じられ、技術開発を一刻も早く進めようとする激しい競争圧力が生まれている。だが、リスクを管理するには、企業間や国際間の協調が必要だ。AIの開発スピードがこのまま加速し続ければ、社会も制度もそれに追いつけなくなるかもしれない」とツナは懸念を示している。
3兆円規模の資産を背景に、効果的利他主義でAI安全性へ投資
そして、そのような時期にこそ、慈善活動が重要な意味を持つことになる。10年前、当時まだ若かった2人(現在ツナは40歳、夫のダスティン・モスコビッツは41歳)は、AIのリスクの軽減を目的とする非営利団体「フューチャー・オブ・ライフ研究所」に100万ドル(約1億5000万円)を寄付した。2017年に2人は、財団を通じてOpenAIの非営利部門に3000万ドル(約46億円)を拠出。2021年には、モスコビッツがAnthropic(アンソロピック)の1億2400万ドル(約191億円)の資金調達ラウンドに参加した。
「その時点では、こうした研究所が利益を生むとは誰も考えていなかった」とツナは振り返る。当時のAI分野は、現在のように企業が莫大な資金を求め、評価額を急騰させている状況とはまったく異なるもので、OpenAIとアンソロピックの両者はともに、AIの安全性への集中を掲げていた。
夫妻も財団も現在、OpenAIの株式を一切保有していない。また、現在の推定価値が5億ドル(約770億円)の2人のアンソロピックの持分は、2025年初めに非営利団体に移された。これは「得られた利益をすべて慈善活動に再投資し、利益相反の懸念を払拭するためだ」とツナは述べている。
夫妻がAIに早くから注目した背景には、テック界に大きな影響力を持つこの2人が、効果的利他主義の信奉者であることが挙げられる。ただしツナは「その呼び名よりも、理念そのものを重視したい」と語る。このムーブメントは、暗号資産取引所FTXの創業者で現在服役中のサム・バンクマン=フリードとの関係で望まぬ注目を浴びたが、本来の目的は「他者を最も効果的に助ける方法を、エビデンスと合理的思考に基づいて見極めること」にある。具体的には、費用対効果の高い短期的支援と、AIのように「将来的に壊滅的影響をもたらすおそれのある長期的リスク」の両面に焦点を当てている。
実際、夫妻がOpenAIやアンソロピックを支援したのは、創業間もない両社がいずれも「人類全体に利益をもたらす安全なAIモデルを構築する」という効果的利他主義の理念の一部を基盤としていた時期だった。
しかし、その後は状況が一変し、世界ではAIをめぐる熱狂が一気に拡大し、巨大テック企業や投資家、各国政府の間で巨額の契約が次々と結ばれるようになった。それでもツナとモスコビッツは自らの使命を見失っていない。彼らはAIモデルをより安全なものにするための助成を拡大し、研究支援、政策提言、ロビー活動を通じて、OpenAIやアンソロピックのような組織の取り組みに影響を与えようとしている。



