しかし、多様性という言葉自体は、「多様である」という事実以上のことを指していない。その良し悪しや、「そうあるべき」「許すべき」などという価値観は含まない言葉である。ところが昨今の「多様性」は、「容認する」「受け入れる」という上から目線の動詞とセットで使われがちで、「認める側」と「認められる側」の分断をも生み出している(注4)。「多様性」へのバックラッシュは、人類の共生という壮大な物語の陰でひっそりと生じている分断と、そのために感じる「うさんくささ」が関係しているのではないだろうか。
(注4)これについては別稿で詳しく論じた。橋本栄莉『モヤる「多様性」を人類学と考える① 〈不思議なことば編〉』https://newspicks.com/news/9389367/body/
「世界はこうあるべき」「人間はこうするのが普通」。このような物語は、特定の秩序をつくり上げるのに便利だったが、同時に適合できない人間に対する厳しさや苦しみも生み出してきた。私たちが理想の物語を生きるために、見ないふりをしてきた私たち自身の不安や恐怖に、もう少し目を向けてもよいのではないだろうか。
思考停止に抗う、ただひとつの方法
では、幾千万の人類の不安や恐怖、そして複雑な人間社会を見てきた人類学が示すことのできるソリューションとは何だろうか。「コスパ」や「タイパ」が重視される今の社会が求めがちなのが、わかりやすい物語だ。ぱっと目につく見出しやサムネイルで、私たちは世界についての物語を取捨選択しなければならない。わかりやすい物語ほど伝わりやすく、拡散は早い。そして、拡散すればするほど、その物語は個人の経験を巻き込み、「そうだ、そうだ!」と共感を集め、より「真実らしさ」を獲得してゆく。
しかし、聞こえのいい物語は、必ずしも私たち自身の不安や恐怖を癒やしてくれるわけではない。むしろ、問題の本質を覆い隠す。私たちが取り戻さなければならないのは、魅惑的な物語の前で一度立ち止まり、それを疑う力だ。自分自身が安易に「舞台セット」のひとつになってしまわないことだ。私たちが「いいね!」や「リポスト」を押すその指一本には、人類が抱える複雑さを特定の物語に封じ込める力がある。そしてときには、幾千万の人を都合の良い登場人物に変える呪いの力も宿っている。
残念ながら、私たちは常に物語の奴隷だ。しかし同時に、それを創造し、修正し、伝えていく主人でもある。どの物語に寄り添うかは、私たちが選び取ることができる。目の前の物語は、わかりやすすぎはしないだろうか。そう自分自身に問いかける力が、現代を生きる人間に求められている。
橋本栄莉◎立教大学文学部史学科超域文化学専修教授。東京学芸大学教育学部卒業後、2008年より南スーダン共和国でフィールドワークを開始。15年、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。19年立教大学着任、25年4月より現職。24年、第21回日本学術振興会賞受賞。著書に『タマリンドの木に集う難民たち-タマリンドの木に集う難民たち-スーダン紛争後社会の民族誌』(九州大学出版会)など。


