なぜ呪術的なものが多くの社会に共通して存在してきたのだろうか。その答えのひとつは「わからない」ものごとに対する不安や恐怖だろう。呪術のみならず「悪魔」や「魔女」、「つき物」や「妖怪」も、さまざまな不可解な出来事や不幸を説明するスケープゴートを見つける手段であった。私たちは、「わからない」という状態に長時間耐えることができない。だからこそ、原因不明の体調不良に病名がつくとほっとするし、社会が不安定になると真偽不明の情報が一気に拡散する。私たちに必要なのは、呪術や妖怪そのものよりも、「わからない」ことをわかりやすく説明してくれる物語と、そこから得られる一時的な快楽や安心感なのだ。
意外に思われるかもしれないが、呪術は、社会の秩序もつくり上げる。呪術が有効な社会(かつての日本もそのひとつ)では、さまざまな出来事が「呪術(師)のせい」にされる。そこでは人々は、呪われないように、あるいは人を呪う者だと疑われないように注意深く行動する。呪いにかけられた者は、「誰の恨みを買ったのか」と胸に手を当て、自身の過去の言動を振り返る。また呪った者も、それが明らかになれば社会から排除されるリスクにさらされる。呪術のある社会は緊張に満ちているが、「呪われるかもしれない」という意識はある種の社会道徳としても機能している。ただし、呪った者・呪われた者も薬やきとうによって「治癒」されることも多い。
呪術も「村八分」と同じで、一度社会からはじかれた者を、再び包摂するシステムでもあった。アフリカでは現代でも地域によっては呪術が使われる。ところが近年では、「魔女狩り」と同じように単なる排斥運動になることも多いようだ(注2)。かつての柔軟さをなくしつつある点に、私は日本のネット社会(巨大な「井戸端」)との共通点を感じる。呪術も宗教も科学も、その時々に人類が欲してきた「合理性」あるいは物語の集大成である。これらは不安や恐怖への対処の技術でもあった。この3つの見かけや効果は異なるものの、その根底にあるのは、「説明したい」「納得したい」という物語を希求する人間の性質だ(注3)。物語依存症の私たち人間は、常に目の前の現象について説明したくて仕方がない。因果関係(らしきもの)を見つけ、起承転結をつけて語ることが大好きだ。自分自身の苦境にかかわる因果の物語を発見したときの興奮や快感、「こいつが悪者!」とわかった(気がした)ときの熱狂たるやすさまじい。
(注2)人類学者の浜本満は、ケニアのドゥルマ社会において近年過激化する妖術師排斥運動を取り上げ、その背景にある植民地統治時代の影響や地域行政との関係、そして近代教育に対する人々の不安との関係を分析した(『信念の呪縛 ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』浜本満、2014年、九州大学出版会)。呪術がかつての柔軟さや個別性を失い、集団ぐるみの排他行動へと転じた原因のひとつは社会の「近代化」であることも指摘できる。
(注3)西洋社会における呪術・宗教・科学の領域の確定プロセスについては人類学者S・J・タンバイア『呪術・科学・宗教:人類学における「普遍」と「相対」』(多和田裕司訳、1996年、思文閣出版)に詳しい。またエヴァンズ=プリチャードによる南スーダン、アザンデ人の妖術を扱った民族誌『アザンデ人の世界:妖術・託宣・呪術』(向井元子訳、2001年、みすず書房)では、特定の社会における信念・知識の生成プロセスや秩序の維持機構としての妖術の側面が指摘され、人類学者のみならず哲学者や社会学者を巻き込んだ合理性論争に寄与した。
しかし、その熱狂は、実際には 複雑な要素が絡み合っている事実 を素通りし、「本当の問題は何か」を考える力を私たちから奪ってしまう。そして私たちは、特定の物語を信じ依存し続け ることで、不安や恐怖から目をそらし、どうにかそれ を癒やそうとする。ヘイト、陰謀論、過剰な科学信仰──。これらの物語の「舞台セット」には、私たちの不安や恐怖が潜んでいるのである。
「うさんくさい多様性」の正体
物語への熱狂は、ヘイトのみならず「多様性」と いう言葉にも当てはまる。「多様性疲れ」「ポリコレ疲れ」といった言葉に示されるように、ヘイトの発生原因としてよく言及されるのが「多様性」への反動(バックラッシュ)である。
もちろん、人類が厳しい環境を耐え抜きここまで生存してきたのは、遺伝的・社会的多様性を確保してきたからにほかならない。ひとつの価値観や特性のみを共有する仲良し共同体では、急な社会変動や秩序の転換に対応できない。


